2017-11

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○○のためにエンヤ〜コラ

PTAという団体が唱える活動に疑義を挟んだり背を向けようとするとすぐに出てくる「子どものため」という言葉。
公益社団法人日本PTA全国協議会の会長あいさつページにも書いてあるし、実際に私もPTA関係者から「子どものためでしょ!?」と怒鳴られた事もある。
あまりに濫用されているこの言葉について、「何が、どこでどう、子どものためになっているのですか?」と問う事はへそ曲がりであろうか。
「子どものためになっていない!」と断罪するつもりはない。「子どものためっていうより、教育関係者の天下りのためでしょ」と穿った事をいうつもりもない。ただただ、「本当に子どものためになっている」という実感にとぼしいため、時間や費用を投入するのならばその手応えをつい探してしまう…といったところなのである。

私の祖父は人と殴り合いの喧嘩をした事すらなかったのに、戦争に駆り出されて武器を持たされ、用もない見知らぬ南方の外国で飢えにさいなまれ疫痢にかかった同胞のみじめな死をたくさん目にした揚げ句爆撃を受けて死んだという。骨すら戻ってこない。これが「国のため」だというのが当時の理屈であろうがそんなものに納得できる家族が一体どこに居るのか。正直な話、国のためかどうかなんてどうでもよく、逆らって家族がムラハチになったり苛められて地域から追放されたり捕まって拷問にあったりしないために召集に応じる以外の選択肢がなかったというのが正直なところではないだろうか。庶民は、三國連太郎のような筋金入りばかりではないのである。

PTAはたとえすっぽかしたところで国家権力までは出てこないだろうからそれと一緒にするのは大げさだろうが、何かにつけて「子どものため」を簡単に言う人は、本当に「子どものためとは」を深く考えたことがあるのだろうかと、なにか70年前の人々が呪文のように唱えてた「お国のため」に似たような標語化(ことばの実体がなくなること)を感じるのだ。

本当は、いちいち面倒な疑問を呈し、つきつめて考え、ひとつひとつ納得行くまで話し合い、さまざまな圧力や非難をはねのけるなどの手間が面倒だから、「従ってすませている」ことについても、「子どものため」というかざりをつければストンと納得しやすい。「まぁなんだかしらないけど子どものためになってるんでしょう」ということでベルマークを点線の外側1ミリで切る作業も黙ってできるようになる。それがわるいことだとはいわないが、そうしない人も当然ながらにいるってことだ。
そういった人を見て腹わた煮えくり返って「子どものためになることをやらない人だ」と非難するのもこれまた自由かもしれないが、そこに「ベルマーク作業に時間を費やすことが子どものためになる」ことの客観的証左がないならば、「主観による誹謗中傷」のレベルを一歩も出ていないことに、気づかなきゃまずいよなぁと思ったりするのであった。

Pフォーサー、コンサバとも、彼らは本当に「子どものため」だと心底思うから活動をしているのであろうか?
本当にそう思っているならば、どうして「やらなくてもいいとなったら誰もやる人なんかいない」などとビックリするような発言をするのであろうか?
保護者というのは、強制もされていないのに任意で子どもを産み育てている人たちであるのに…
なぜ親たちは公園に連れていって運動をさせ、なるべく栄養の良い食事を作り、夏休みにはレジャーを計画するのか?やらなくていいのに。
育児をする、教育をする、家族で暮らすという営みは「やらなくてもいいなら誰もしない」という論理を持ち込むことに非常に違和感のある世界であるはずだ。

やっぱり本当は、「PTAをやる理由」というのは、「子どものため」のほかにあるということなのではないだろうかなぁ…
私にはわからんけど。

コメント

子どものためではなく、本当は “大人の学びのため”

ぶきゃこさん、お久しぶりぶりです~♪

私も、その疑問をずっと抱いていて、やっと答えを見つけました。
それが表題の “大人の学びのため” なんです。行政のPTA担当が、なぜ「生涯学習」のセクションなんでしょうか?それも、上は文科省から下は区まで。そこにヒントが転がってます。

んで、春に教育委員会と対話しに行ったとき、若い担当官をお説教しちゃった☆
その方「不勉強ですみません」とおっしゃっていて、同席の上役はなにもおっしゃってませんでした(^^)v

分りやすいです

「子どものため」って分かりやすいし、大義名分としてなかなか立派に聞こえるので使われているにすぎないってことがよく分りました。
うちの場合PTAの対象児童である小学生の他に幼稚園に通う虚弱児の未就学児(PTA非対象の子ども)がいるのですが、その未就学児の命を危険にさらしてまでも小学生のために働けと言ってきているのですから、「子どものため」ではなく、解説っぽくなりますが「PTA会員子弟の小学生の子どものため」ということですよね。まぁ、長すぎるので略して「子どものため」(爆)

猫紫紺さんのおっしゃるとおり、大抵のPTA規約には「会員相互の学びのため」というようなことが書いてあると思います。まさに「大人の学びのため」ですよ。規約にそう書いておきながら、実務上は「子どものため」?何をやりたい団体なのでしょう?

皆様、コメントありがとうございます!

猫紫紺さん、仰る通り、そもそもの社教法をひもといてみれば「大人の学びのための団体」としか読めないですよね。でもね、コンサバ系の人はほとんどが、「学校支援団体」または「子ども支援団体」と信じ込んでいますよ。
いえ、それどころか、「支援団体」というのすら通り過ぎて、「親の義務」と解釈している人が山ほど…。だから、任意の活動なのに「くじ」が成り立つ、という奇妙な現象がおきてるわけですね。

さやさやさん、規約には「大人の学びのため」と書きながら、実態は「PTA会員子弟の小学生の子どものため」。不信感が芽生えますよね。なぜ実態と違うことを規約に書くのか? それは、そう書かないと、社教法に基づく学校施設の使用認可が取れないからではないでしょうか?学校行事の時に会員の子どもにまんじゅうを配るのが目的の団体に税金設備を無料貸し出しするのもおかしな話ですもんね。

PTAが二重性格を持つ団体であることは、日Pもどうどうと認めています。
しかし、シンプルに考えて二重性格の団体って、なんだかうさんくさいと思います。
目的外利用されても、どうにかこじつければ「意義にかなっているからOK」となりそうです。

「大人の学び」というのがもうすでに、大きなお世話です。(強制されるのは、ってことです)
保護者と教職員の団体という、ものすごく知識レベルも社会経験値も年齢も思想もバラバラな人たちを半強制的に束ねて、「学び合う」と大きなことを言ってみたところで、せいぜいできるのは動員セミナーやスポーツ・趣味的な「親睦」ですよね。「学びたい」と集まってきた人々だっていうんならまだしも。
親睦団体と称するなら許容範囲ですが、子どもが小学生または仕事が教職員というだけでほぼ強制的に集めて「学び」ってこっちは小学生じゃねえぞって思います。
私は、日々学んでますよ。仕事から、子どもから、その他さまざまな社会から。
PTAの会合に行って学びたいと願ったことなんて、いちどもありません。
「やらなくていいなら誰だってやらない」などと叫ぶ人は、本心ではもしかすると同じ思いなのではないでしょうか。

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ぶきゃこ

Author:ぶきゃこ
東京多摩地区。
会社員しながら4匹にエサやり中。
母親としてはもう相当数無理あり。
中2以来、ずっと重度の中二病。
ツイッターもあるヨ→@ bkk858

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