2013-09

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毒草はなばなしく

自動加入PTAが「悪い土壌」だとすれば、それをいいことに根を下ろし葉を広げて花を咲かせる毒草がある。
毒草の1種に「上部団体」、もう1種に「学校」がある。
上部団体は本日は触れない。
学校が何故毒草なんだ、と仰るむきもあろうが、これはもちろん「任意団体の健全運営にとって」という意味である。子どもにとって学校が大切な存在であることを否定するものではない。

保護者のほぼ共通な意識として、「学校に子どもを見てもらっている」という意識がある。
授業参観に行けばわかる通り、数十人の未熟で幼稚な人間に系統だったものごとを教え込むのは容易ではない。技術と経験を要する話だし、体力的にもそうとう消耗する。私などは、朝8時前に職場に着いていなければならないという時点でもう一生教師にはなれない。先生というものにはまことに頭が下がるものなのである。

しかしいっぽうで、だからなのか何なのかはわからないが、社会常識にうとくビックリするようなことを保護者に期待していることがあり、それに「ついつい応えてしまうシステム」=PTAが常時備え付けられていると、保護者側も前記したような「負い目」が追加のガソリンとなってどんどん変な暴走ファイアーが焚き上がる始末となったりもするのではないだろうか。
個人的には、「親が輪番つきそいの集団登校」なんてものは“変な暴走ファイアー”のトップに挙げてもいいようなものだ。
もちろんベルマーク強制も同じようなものだけれども、ベルマークは何かというとこのブログでいぢめているので今回はそっとしておこう。

つまりひとことでいうと「PTAだけが暴走しているわけではなく、学校もおかしい」ということである。

先日、それをしみじみ感じさせるプリントが配布された。
「研究発表会の手伝い募集」である。
これは学校から保護者向けの募集であり、PTAは関係ないのだが…。
かいつまんで書くと、「当校で研究発表会をする。教師は全員研究授業や研究発表に関わるため、受付や道案内や接待等ができない。だからそれを保護者にボランティアでやって欲しい」というものである。
仕事内容。道案内(校外)・受付・来賓接待・お茶コーヒー担当

はぁ〜〜〜?

研究発表会というからには、集まる人たちもほとんど教員か教育関係者だよね?
その人たちは、公立学校の場所もわからんのか? 道路に保護者が立って「あちらですよ」とか言わないと来られないの? 地図見てたどり着くこともできない人たちが、子供に授業してんの? いまどきグーグルマップなんか子供でも使えるよ?

受付なんか、紙おいといて勝手に書いてもらえば問題ないでしょ? 大人だよ?
接待って…教員のあんたがたが接待したいのは自由だけど、それをなんで保護者が? だいたい税金使ったイベントで公務員を接待すんなよ!
お茶だコーヒーだ? 正門から50mのところに自動販売機ありますが何か? 今どきの教員は自力でいろはす買う金もないのか?

うちの会社だって人を集めるイベントはやるが、そんなくだらない要員で悩んだことなんてないぞ? ましてや自分たちの業務や研究の成果を発表するのに、誰かに無償で手伝ってもらおうなんて発想がそもそも謎。
非常識すぎる。なんで、そんなアホウなことを、われわれ保護者が本業休んで無償でやらなきゃならんわけですか。子供の行事のためなら働くけど、地図もよめないおっさん教師のために何が悲しくてそんな意味わからんサービスを…(このあとも、るるるると見苦しい悪口罵詈雑言が続くため教育上の観点から以下カット)

ま、これは単なる推測なんだけど、こういうのも学校によってはホイホイと便利にPTAに丸投げしたりしてるんじゃないかな〜と。
こんなのが「子供のため!」で「一人一役」だののノルマで割り当てられたら、ホントたまらんよなって思ったプリントでございました。
あ、もちろん応募はしてません。
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システムか人か

問題が発生したとき、その原因が単一であることは少ない。
多くは、発生要因は複合的であり、解決のためには主因を取り除くことをメインにしながら多面的に働きかけをするしかない。となる。
ここまでは当たり前の話。

そしてPTA問題についての「よくある論」のなかに、「PTAというシステムは何ら悪くない。活動が強制的、閉塞的になってしまっているなら、それはやってる人の問題。強制で苦しんでるのに改善されないのなら、それは改善しようとしない会員全体の問題」というのがある。

冒頭の「問題はいつも複合的」という持論を引っ張るなら、「やってる人がほとんど後ろ向きで前年踏襲で改善なんかに大して興味がないことが問題」というのもあながち間違いではないと思うのだが、複合している問題のうちのあくまで1つであり、ウェイト的には低いのではないかと私は思っている。
なぜそう思うか。
「PTA」と名のつく組織において全国的に同様の問題が多発しているからである。

たとえば全国である車種が同様の暴走事故を多発しているとして、それが「ニュートラルのまま急激にふかす」という操作を行うと起きる挙動だったとしよう。
そのときに、「そんなことやる方がおかしい。操作する人格の問題」とメーカーがしらんふりすることは許されるだろうか?
いかにフカシ行為がバカチンであろうと、それが可能な設計であり、かつ他の車種では同様の事故が起きていない以上、暴走の責任はおもに製品側にあるといわざるを得ないだろう。

おなじく、人間というものは「強制だ、義務だ、やるのが責任だ」と思わされてしまうと、同条件にありながらやらない人がいれば「ズルイ」と感じ、くじだポイント制だと暴走して行ってしまう。
そもそも任意なのにそんなこと思いつくほうが阿呆だ、人間の問題だ、といくら言おうとも、「でも、やらなきゃいけないものでしょ?」と洗脳されちゃってる人が多数だから水掛け論争にしかならない。
同じ阿呆な人間がやっていても、他の「普通に任意加入の団体」ではそんなバカな挙動はしていないわけで、問題発生頻度・範囲とあわせて考えれば、あきらかに「PTAというシステム」に重大な欠陥があると言えるだろう。

「PTAというシステムは悪くない。運営方法が悪いだけ」と主張する人がいたら、その人の認識する「システム」の範囲をよく聞いて確認する必要があるものの、その内容が実は「だってうちのPTAはべつに任意とか言わなくてもうまく行ってるもん」ということでしかなかったとしたら、それはもう「システム」が起こしている全国的な現象をもうちっと考えたほうがいいですよってことっすね。

だってうちの車は暴走なんかしたことないよ? 止まってふかすほうが馬鹿じゃん。
という論理でそういう車を勧めて売りまくっていいんですかね国。「主因」はどこか?という話。
私は、「自動加入PTA」は、そのプラス効果(人員が容易に集まるとか)を考慮に入れたとしてもまだ全然、廃棄したほうがいいシステムだと思っている。全国的な苦情・愚痴・恨み辛みの量って、総量はいったいどれくらいになるんでしょうかね、見当もつかないわ…。

たまには読書感想文

この連休に、高山文彦「『少年A』14歳の肖像」を読んだ。
本自体は、読むのは数回目だと思うのだが、数年ぶりに読んだ今回は、なぜか今までとは違う感想が湧いてきた。

「少年A」は、凶悪猟奇事件の犯人であるが、そのようなことを引き起こした彼の人格形成の大きな要因として、「母親の厳しいしつけ」が挙げられている。そしてそれは疑いようもないものとして、この本でもあたかも既定事実のように語られている。

事件自体はおぞましく許しがたいものであり、弱者を狙った犯行として世間の怒りをかったのも当然のことだと思われる。また、未成年者による犯行であれば親の「保護監督責任」が問われるのも当たり前だと思う。

可愛い児童が亡くなっている話でもあり、冷静に見ろと言われても無理な話かもしれないが、しかしここはあえてちょっと第三者の目で見たい。
著者の高山氏(そして多くの日本人)は、「異常な行いをした子どもを輩出したのだから、あの家庭は異常な育て方をしたに違いない。いや、そうでなければならない」という結論にむすびつけんがために、あの家庭の内情を、まるで見てきたかのように語っていないだろうか?

Aの父母が書いた「悔恨の手記」も出版されており、そちらも読み返してみたが、素直に読めばAが発達障害の一種なのではないかという感想にたどり着くものであった。同時に父母ともに、こう言っては何だが「鈍感力」がキツすぎるのではないかと思う記述箇所も多かった。周囲では有名な話となっていた動物虐待行為についても父母ともに「まったく気づかなかった」、あるいは他の数々の兆候についても「気にも留めなかった」の連発であり、子どもを信じるという美名のもとに疑いから目をそらし、責任を果たすことを怠っていたのではないか…という疑念もわく。

ただ、それがすべてそのとおりであり、子どもへの信頼という名を借りたイグノランスであり怠慢であったとしても、鈍感力がひどすぎるとしても、幼少時にイラついて多少叩いたとしても、それが思春期になってからの猟奇殺人行為につながるというのは、やはり一種の悪い巡り合わせだとしか思えなかった。
なぜなら、そんな親は世の中に掃いて捨てるほどいるからである。私自身も含め、そんなほめられた子育てはまるでしていない。
子どもが悪事を働けばとうぜん「監督責任」もとらなければならないことは承知の上での子育てだが、「そんな育て方をすれば殺人者になるに決まっているでしょう!」というようなことはしていないつもりだ…そのつもりで日々くらしている。

Aが恐ろしい罪をおかしたことについてAの母親に全面的に原因があるという人がいるなら、ぜひその人に、彼女の子育てのどこが具体的に悪くて、どのようにすればそうならなかったのか、ということを詳しく述べて欲しいと思う。
そうした情報は、多くの母親が非常に知りたがっていることなのではないだろうか?

しかし高山氏の著作も、いろいろな深みのありそうなことが、母親を厳しく断罪する口調とともに書かれていながらも、そのような具体的な検証はいっさいなかった。
「母親は自分ではそんなに厳しくしたつもりはないと言っているが、実際には虐待にちかいことが行われていた」というような記述があるが、それはどのように客観的なのだろうか?
ほとんど密室内で行われているのだから、「母親と本人以外の証言以外は、不明」というのが正確ではないだろうか?
裁判所の精神鑑定でさえ、「母親のしつけ」については聞き取りを根拠にしており当然、客観的な記録があるわけではない。叩かれて怪我をし、病院で診察を受けたというような事実はない。
証拠がなければ、「本人がそう受け止めた」ということでしかないのではないだろうか?
本人が誇張して述べていることも十分にあり得るわけだ。
「叩くしつけ」については、弟を苛めたりしたときに週2、3回お尻だったと本人も母親も言っている。叩くのはたしかに教育能力不足であって反省すべき点だが、週に2、3回尻をたたくという行為がそこまで性格をゆがめるとも、どうにも私には思えないのである。そんなこと言ったら世の中は殺人者だらけでは? その事実をもって「厳しすぎるしつけ」というのはどうだろうか…?
子どものどのような行いに対し、どのような叱責方法をとったことが「行き過ぎ」であり、子どもを殺人者にまでしてしまうような「失敗」であるのか?
そのようなマニュアルをあらかじめ踏まえて子育てをしている人がいるのだろうか? 多くの母親は、手探りや願いや祈りといったものを心頼みにし、道なき道を行く不安と背中合わせになりながら、自分に出来る事、子どものためにと思うことを、精いっぱいやっているのではないだろうか?
毎日食事を作り、遊びに連れていき、身の回りのしつけをした母親の失点はあげつらわれ、ほっぽって休日もゴルフざんまいの父親の「育児」が問われないのは何故か?

…うだうだと長くなってしまったのでまとめよう。
私は、Aの母親を擁護したいわけでも何でもない。特に子どもが明らかに悪くなってからの過失は色々とあったと思うし、立場的に監督責任があることに疑いはない。しかし、犯罪少年がいたからといって結果論的に「母親の育て方が悪かったに違いない」と証拠もなくこじつけてくる批評の仕方には同調できないし、それを主張するのなら明確に「人はどう育てればどう育つのか」を具体的に示し立証して欲しいと思う。
この日本に蔓延している、「子どもを見て母親を採点する」人々の傲慢さを、私は思うのだ。

…と言っても、私が「母親」だから、「立場からの言い訳」となっちゃうんだけどね。

○○のためにエンヤ〜コラ

PTAという団体が唱える活動に疑義を挟んだり背を向けようとするとすぐに出てくる「子どものため」という言葉。
公益社団法人日本PTA全国協議会の会長あいさつページにも書いてあるし、実際に私もPTA関係者から「子どものためでしょ!?」と怒鳴られた事もある。
あまりに濫用されているこの言葉について、「何が、どこでどう、子どものためになっているのですか?」と問う事はへそ曲がりであろうか。
「子どものためになっていない!」と断罪するつもりはない。「子どものためっていうより、教育関係者の天下りのためでしょ」と穿った事をいうつもりもない。ただただ、「本当に子どものためになっている」という実感にとぼしいため、時間や費用を投入するのならばその手応えをつい探してしまう…といったところなのである。

私の祖父は人と殴り合いの喧嘩をした事すらなかったのに、戦争に駆り出されて武器を持たされ、用もない見知らぬ南方の外国で飢えにさいなまれ疫痢にかかった同胞のみじめな死をたくさん目にした揚げ句爆撃を受けて死んだという。骨すら戻ってこない。これが「国のため」だというのが当時の理屈であろうがそんなものに納得できる家族が一体どこに居るのか。正直な話、国のためかどうかなんてどうでもよく、逆らって家族がムラハチになったり苛められて地域から追放されたり捕まって拷問にあったりしないために召集に応じる以外の選択肢がなかったというのが正直なところではないだろうか。庶民は、三國連太郎のような筋金入りばかりではないのである。

PTAはたとえすっぽかしたところで国家権力までは出てこないだろうからそれと一緒にするのは大げさだろうが、何かにつけて「子どものため」を簡単に言う人は、本当に「子どものためとは」を深く考えたことがあるのだろうかと、なにか70年前の人々が呪文のように唱えてた「お国のため」に似たような標語化(ことばの実体がなくなること)を感じるのだ。

本当は、いちいち面倒な疑問を呈し、つきつめて考え、ひとつひとつ納得行くまで話し合い、さまざまな圧力や非難をはねのけるなどの手間が面倒だから、「従ってすませている」ことについても、「子どものため」というかざりをつければストンと納得しやすい。「まぁなんだかしらないけど子どものためになってるんでしょう」ということでベルマークを点線の外側1ミリで切る作業も黙ってできるようになる。それがわるいことだとはいわないが、そうしない人も当然ながらにいるってことだ。
そういった人を見て腹わた煮えくり返って「子どものためになることをやらない人だ」と非難するのもこれまた自由かもしれないが、そこに「ベルマーク作業に時間を費やすことが子どものためになる」ことの客観的証左がないならば、「主観による誹謗中傷」のレベルを一歩も出ていないことに、気づかなきゃまずいよなぁと思ったりするのであった。

Pフォーサー、コンサバとも、彼らは本当に「子どものため」だと心底思うから活動をしているのであろうか?
本当にそう思っているならば、どうして「やらなくてもいいとなったら誰もやる人なんかいない」などとビックリするような発言をするのであろうか?
保護者というのは、強制もされていないのに任意で子どもを産み育てている人たちであるのに…
なぜ親たちは公園に連れていって運動をさせ、なるべく栄養の良い食事を作り、夏休みにはレジャーを計画するのか?やらなくていいのに。
育児をする、教育をする、家族で暮らすという営みは「やらなくてもいいなら誰もしない」という論理を持ち込むことに非常に違和感のある世界であるはずだ。

やっぱり本当は、「PTAをやる理由」というのは、「子どものため」のほかにあるということなのではないだろうかなぁ…
私にはわからんけど。

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ぶきゃこ

Author:ぶきゃこ
東京多摩地区。
会社員しながら4匹にエサやり中。
母親としてはもう相当数無理あり。
中2以来、ずっと重度の中二病。
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