2013-06

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

強制とはなにか

私はいつも、「PTAは任意加入の団体なのだから、強制はいけませんよね」という原点からモノを言っているわけだが、人と話をするとき、まずこの第一歩からして共有につまずくことがある。
“人”というのはまあつまり教委とか校長とかPTA支持派の「フォース系」だったりするわけだが、「支持推進したい」という彼らの主張はさておくとしても、そもそも前提となる「強制してるよね」という認識自体に齟齬があったりするわけである。

まったくPTAを知らない人に「強制」と言うと、嫌がっているのに無理矢理「○○委員やって下さいね!」と大声で迫ったり、委員決めの場に欠席していたのに手紙で「あなた○○委員になりましたからよろしく」と一方的に通知してきたり、そういう光景を思い浮かべるらしい。NHKあさイチでも「強制」という概念を一種わかりやすく表現するために、その類いの描写が使われていたと思う。

もちろん、そういう「わかりやすい強制」は現実にあるし、それに抗弁すると「仕事は理由になりません!」などと強圧的に却下されたりすることも、ないとは言えないのだが、実際には、そこまでひどい&あからさまなのはよっぽどではないかと思う。

もっと普遍的に、PTAという団体の中でうようよころがっている「強制」「圧力」とはどのようなものか?
それは、たとえば
「旗振りは子どもたちの登下校の安全を守る重要な活動で、○十年続けられています。交通事故はもちろんのこと、登下校中の児童を狙った犯罪も年々増え続けています。地域の安全を守るため、今、保護者が担う役割は欠かせないものとなってきています。地域の方々もお忙しい合間をぬって、見守ってくださっています。皆様お仕事等あると思いますが、子どもたちの安全のため少しずつ協力し合いましょう。」
のような美辞麗句である。

この文章の中では、「活動に意味合いを持たせるため」、恣意的な意義付けが行われているが、「子どものため」をこれほどまでに看板に掲げられては、ノーを言える保護者は少ないと思う。もちろん、ノーと言いにくくさせるために書かれた文章だからそうなるのは当たり前なのだが、こういうのが強制にほかならないと私は思うわけさ。

こういうことが書かれたプリントを見て、
「それほどまでに旗振りが欠かせない活動であるなら、年間のうち4週間しか行われないのは何故か?」
「登校時だけ行われ、下校はほったらかしで良いのは何故か?」
「交通事故と児童向け犯罪の増加データは?」
「旗振りをしていても事故や犯罪が増加しているのであれば効果がないということではないか?」
「地域の方々というのはどんな方でどのくらいの頻度で何をしてくださっているのか?」
などなどと突っ込んでみなはれや。絶対にシーンとされ、いやがられる。なぜわかるかというと、やったことがあるからだ。
そしてまずまちがいなく、「やりたくないからってそんな屁理屈の質問をしてる」というふうに受け取られる。
「保護者を納得させとどこおりなく活動をやってもらう」という目的が達成されず(彼らにとっては)どうでもいいことをいちいち突っ込まれると、その文章を苦労して考えた役員側は、明らかにイラつき始める。

余談だが、第1・第2の質問のようなことを言うと、「毎日だと大変だから」と、突然「保護者都合」が出てくるのでビックリするのよ。
出勤が朝早いから彼らが決めた当番スケジュールで出られない、と言うと、「年に1回とか2回程度でも、ずらすのは難しいんですか?」と遠回しに「仕事ぐらいなんとかしろよ」と言ってくるわりには、下校時は「皆さんお仕事もあるので」と簡単にナシにされる。な、なにそれ!?
「子どものため」に、犠牲を払いたいのか、払いたくないのか、さっぱりわからない。
けどまあそれは余談だからいい。

私が言いたいのは、PTAに蔓延している「強制」というものは、なにもNHKで報道されるようなわかりやすいモノばかりではない、むしろ、「PTA万歳」を全員でうたわされるかのようなあの「根拠無き信仰」「疑問が呈せないフインキ」「やらない親はすっごいヒドイ親」「たったそれぐらい手伝えないなんてありえない親」という無言の圧力の方が、私が「強制」と表現したい部分なのであって、そしてこれはPTA母親社会のなかに身を置いたことのない文科省のおっさんやら、めんどくさいことは全部奥さんにやってもらって毎晩会合漬けになってる教育長やら、男性だからとお飾りで据えられてちやほやされてた「PTA会長経験者」には絶対にわかりっこない部分だということである。

そういう連中が、「PTAは子どものために組織された自主的な団体です」と涼しい顔して言ったり「ウチは強制はしてません!話し合いで決まってますよ」「保護者に活動の重要性を説明し、理解してもらってます」などと言うのを聞いては「はぁ、さいですか…」と力が抜ける私なのであった。
スポンサーサイト

おばちゃんは左に曲がるな

本日だけは、暴論を主張させていただく。
お前のは年がら年中暴論じゃねぇ〜かなどという野次は厳につつしんでくださいっ、そこのアナタ。
きょうは真剣に言いたいのだ、
「おばちゃんは車に乗ったら、絶対に左に曲がるな!」
と。

先日、車に乗ってなにげに交差点で信号待ちしていたら、交差方向から走ってきて左折した小型車が、横断歩道上でガシャーンと子どもを自転車ごとはねたではないか。
倒れる自転車と、車のフロント部分に巻き込まれひっくり返る、半ズボンの子どもの足が見えた。

ギャーーーーーッ!

私のまばたきは止まり、全身の血が逆流し一瞬で手が冷たくなった。車を寄せて救助に行きたいが、T字交差路で直進レーンにいるため、進行先が事故現場化している状態では身動きが取れない。とりあえず通行車のうち停止した1台から男性が降りて向かっているのが見えたので、私は先に通報をし、やっと空いた路上スペースに車を寄せて対応に当たった。

救急車で運ばれたお子さんのお母さんから後日丁寧なお礼の電話をいただいた。「幸いにも軽傷ですみまして…」と仰っていたので、(腕は折れていたのではないかと思うが)後遺症等はないか、あっても極小ですみそうで、とりあえずホッとした。
それにしても交通事故は本当に恐ろしく、直視してしまうと絶対に長期間トラウマになってしまう…

本当に首をかしげてしまうのだが、現場は広く、立ち木や看板などもなくてめちゃめちゃ見通しの良いところなのである。夕暮れの危険時間帯とはいえ、交差点にはいるだいぶ前から自転車の存在は絶対に見えていたはずであり、なにをどうやったら左を巻き込まなきゃいけないのかさっぱりわからない。
そして、あんのじょう、運転者はおばちゃんである。

実は、しばらく前に、うちの子もはねられている。
場所は違うが、これまたおばちゃんの小型車に青信号で左巻き込みされた。
うちの子は側頭部をボンネットに強打し、治療も長くかかって大変だった。
これも思い出しただけで腹が立つ。
しかも提出求めたら、去年切れてる自賠責を出して来やがった!
世間なめとんのかーーー!
(有効自賠責は、家にしまってあったというバカタレなオチ)
二度と運転すんなーっ!

うちの子がはねられたのも、やっぱりありえないくらい見通しの良い交差点だった。
おばちゃんというものは、目はどこについてるんですかっ!?
お前もおばちゃんではないかという指摘はこの際禁止!
それはそれ、これはこれ!
私だって絶対に事故を起こさないとは言えないが、それにしてもあれだけ見える現場で、何をどうやったら自転車をひくのよ!?

もう、おばちゃんは右折のみ可とする!
左に行きたくともダメッ!
右折5回ぐらいすれば目的地に行けるでしょうが!それで行きなさいッ!
私は大まじである!

自力で代理を探してきてください

って、言われたことないですか?
PTAの役とか係とか、そういうので。

手伝いに行くことになってたけど、都合が悪くなった。
そもそも引き受けられないのに、クジなどで強制され、断るとそう言われた。
など。。。

何かを依頼している人に対して、そんなことを言うのって、ものすご〜〜く失礼なことだと私は思うんだけど、それって私だけの感覚なのであろうか?
人手が必要だから何かして欲しい、というから、これならできるよ、と応募?したのに、「できなくなったら自分で代わりを探せ」とは…?

先日、学童の父母会で祭りの手伝いに駆り出された。
「駆り出された」とは言うものの、そもそもは以前、私が「いいですよ」と了承したからである。
しかし、いろいろな事情が重なり、都合が悪くなってしまった。
しかし「できなくなったら、代わりは自分で探せ」と言うので、結局、あれこれ無理をして行った。
だって、「代わりを探す」って、できるの?
他の人たちはできるの?
知り合いがいないわけではないが、頼めないですよそんなこと、当たり前じゃん。

当然、なにも楽しくないし、義務感しかない。
もともとやりたい祭りでもなんでもないし、うちの子たちが行くわけでもない。
ほとんど我が家には関係ないのだが、手伝ってもらえないかというから、好意でOKしただけ。
なのに、なんでこんな無理までしなきゃいけないんだろうなあ?って疑問を持ったし、「代わりを自分で探せ」の失礼さにも怒りを覚えた。

行くのが難しくなる可能性があるなら、最初から引き受けないのが礼儀だったのかも知れないなとも思う。だって、絶対行けるなんて保証できないし、もし行けなくなっても代わりを探すなんてできないもん。

私は別の団体で、メンバーにボランティアを割り振る役柄をやっているが、引き受けてくれた人にも「できなくなったら遠慮なく相談してね」と言っている。できなくなったら、割り振り役の私の責任のもとで、どうにか都合をつけるべく奔走する。あたりまえではないだろうか?
そこは「入会したら手伝いなど、協力いただきますよ」と事前に説明の上、同意貰ってから入会してもらっている団体であるから、どさくさにまぎれて人をいつの間にか会員にして仕事を強要するPTAや父母会なんかと一緒にしないで欲しいのであるが、それでも「キャンセルするなら自力で代わりを探してこい」なんて失礼なことは言うわけない。私は単なる「役」で団体の仕事を依頼しているわけであって私が個人的に頼んでいるわけではないが、それでも人に無償で物を頼んでおきながら、お前が代理を連れて来いなどと言うのは頭がおかしいとしか思えないからだ。

なんで、PTAとか父母会ってあんなに失礼なのだろうか?
構成しているのは普通の親御さんたちなのに、なんであんなに失礼なことが平気になってしまうのだろうか?
なにか、変なクスリでも全員で飲んでいるのではないかと思ってしまうのであった。
私だけがおかしいのかも知れないが…

なんで給食着が腹立つかというと

無駄に長生きしてる割にはどうも人間的な成長がいまいちらしく、未だに、くだらないウソをつかれるとイラッとする。
なぜに、ウソをつかれるとイラッとするのか。
それは、本当じゃないことを言われると、それは本当じゃないからイヤ。
とかそういうプリミチブな話ではない。
「こう言えばあいつは信じるに違いない」と思って言動に移すという行為が、すなわち、こちらを馬鹿にした話だからである。
ウソだから腹が立つのではない。
馬鹿にしているから、腹が立つのである。

だから、ものすごい大ウソで「1本取られたー。まんまと騙された!」みたいなウソより、「そんなくだらねぇウソついてどこが面白いんだ?」みたいなウソを真面目な顔して並べてるヤツの方がよりイライラする。舐めてんの?と思う。

そして、給食着の話だ。
三多摩小学校の給食着(給食当番の子が着る衛生着)は、割烹着と帽子とマスク、そしてそれを入れる袋のセットである。
当番だった子は週末に持ち帰ってマスク以外は洗濯し、次の当番に渡す。
これは別にいい。
しかし、「帽子も含めて、必ずアイロンをかけること」と学校は言うのである。

給食着はポリエステル65:綿35のいわゆる「ブロード」であり、洗いっぱなしでも大したしわにはならない。
そして私は個人的に、ブロードにアイロンをあてたときの、工場の排煙のようなケミカルな臭いが好きではない。
まあそれでもいいよ。どうしてもアイロンかけろって言うなら。
そう思って通算9年以上、アイロンをかけ続けてきた。

そんなに長年やってるならもうどうでもいいじゃんか、と思われるかも知れないが、やはり今でも学校からの「アイロンかけろ」プリントに「消毒のためです。帽子にもきちんとかけてください」などと書いてあると、いちいちイライラッとするのであった。

アイロンはいいよ。折り目ついてたほうが気持ちいいし清潔そうだもんね、かけろっつうならかけるよかけますよ。
でも、「消毒のため」ってなんなのよ?
汗くせぇお子様たちが校庭で遊んだりホコリだらけの教室でころげまわったあと、ろくに手も洗ったか洗わないかわかんないような状態で洟すすりながら着てる給食着を、なんで「消毒」しなきゃいかんのよ。
教室は食品メーカー工場か?
じゃあ聞くけど、エアシャワーはどこにあんの? クレゾールはどこですか? 
肝心の手にはビニール手袋はしないの?
ったくフザけるのもたいがいにしなさいな。
「なにか、もっともらしくて根拠のありそうなことを言えば、母親たちはおとなしく従うに違いない」と思ってるっぽいその小ウソが、イラッとくるんだよ!

ほんとに「消毒」にこだわるほど、衛生に気をつけてるんだったら、洗いっぱなしでもいいから給食着は毎日とりかえなきゃまずダメだろう?
週末、5着持って帰らせなさいよ。ほんとに衛生第一に考えてるんだったら。
そして洗濯後、全部ジップロックで密封させて、使う日まで触らせちゃ駄目でしょう。
そこまでやるなら「なるほど衛生に気をつけてるんだな」と納得して差し上げやしょう。
前の日の汁が飛んだりごはん粒ついた給食着で配膳させて、「お母さんがちゃんとアイロンで消毒してくれてるから清潔だよ〜」って、ナメとんのかぁぁー!

などといちいち腹立てながら(ま、正直めんどくさいという気持ちも少なからずありますが…)セイセイとアイロンがけにいそしむ週末なのであった。

読売新聞「変わるPTA」全4回

6月12日から15日の間に東日本で読売新聞に連載された「変わるPTA」シリーズを読み終えた。
4篇を通読して思うことは、「なぜ、PTAをどう活動させるか、の話から始まるのだろう?」ということだ。
わかったことは、PTAの目的を変え、構成母集団を変え、規約を変え、活動形態を変え、組織構成を変え、etc…のあとに、「これで活性化につながったorつながるんじゃないの?」という話をしたいらしい、ということだ。

しかしながらあまねく団体というものは、同種目的を持つ人が複数集まって、それを遂行するために結成されるものである。当たり前の話だが。
ブログでぐだぐだと飽きもせずPTAについて語っている私のような者は、そもそもそこの結成プロセスに何か尋常ではない「他からの力」を感じ取って、Pフォースという概念までつくって疑問を呈しているわけである。
小学校なら約6分の1、中学校なら約3分の1の会員が毎年入れ替わるわけであるから、かなり「毎年再結成」に近いものがあるし、それでもやり続けるならその都度目的=結成動機を本来は再確認しなければならないような気がするのであるが、それが「ひとえに子どものためという理由で毎年再結成されている」と簡単に語られるにしてはおかしな現状があるんじゃないか?という話をしとるわけですよ。ね?

読売新聞というのは日本ではすご〜いエライ新聞で、そこにお勤めするためにはすご〜い頭いい学校出なきゃいけなくて、それでもって全国紙に記事書けたりするのはすご〜い抜擢された社員だったりして「おいっ、こんど全国紙で4回連載やれっ!取材は抜かりなくやれよ」「ホントっすか!?自分やらしてもらえるんすかっ!徹夜してでもマジ頑張りますっ(滂沱の涙)」みたいな若手のカンドー秘話があるにちがいないと思うわけだが、そういう最高の人材による最高の資源を使った最高の影響力を持つ報道の取材にも関わらず「そもそもこの団体はまともな動機と手順で結成されているのか」という観点での描写がまったくスッポリと抜け落ちているのはどういうわけなのだろうか。

もちろん、「巣鴨商店街の山口キヌさんの1日」で地元の発展に力を尽くすばあちゃんを取材して、そもそも商店街が任意加入なのかという話に焦点をあてたり、「酷寒網走で警察犬として身を挺して勤めるタロとジロ24時間」みたいな取材で「だいたい何も悪いことしてない犬に強制して危険な任務に当たらせるのは動物愛護視点からどうよ」という話を持ち出してしまうと、記事や番組としてピンボケになってしまう。それはわかる。だから、まぁそれはそうとして、「この話はいい話だよね」ということで予定調和に持ち込むのが、ジャーナリズムの一手法であろう。

しかしながら、この2013年においてPTAをテーマとした報道をするに当たり「そこ(入り口問題)をあくまで触らない」というのは、もはや明らかに不自然であり、いったい何の誰のオーダーでこういう記事になっているのか不審に思う。
“時の人”に何人も取材をしているところはNHKや朝日新聞報道にひきつけられた視聴者・読者をねらっているようでもあるが、その記事内容(特に最終記事)を読めばそれが単なるちょうちんであったことも判明する。

有名な「まるおさん」の言葉も紹介されているが、まるおさんってこのようなことを仰っていただろうか? と首をひねる。「活動に参加するかどうかは保護者の自発性を尊重することが大切」は、確かにそのとおりかもしれないが、そういう言い方ってなにか、「活動をしない奴は自発性のない奴」というようなニュアンスを含ませてる気がする。「役員が丁寧に意義を説明しているにも関わらず、自発性をもたない自己中なやつらはしょうがないとして」という意味を裏に隠しているかのような物言いになっている。
なにか記事全体の文脈に沿うように言葉の微修正を行っていないだろうか? なにを修正しているのかと言われるとはっきり言えないが、「入会する」を「活動に参加する」に微修正し、「個々の判断」「自主性」を「自発性」にこそっとすり替えたりされていないだろうか?
私にはまるおさんがそんな言葉を使ったことがあるという記憶がない。
いや、「自発性」は仰ったことがあるのかも知れないが、「自発的な活動参加が望ましい」というような主張に力を入れておられた、という記憶がないのだ。

大して違わない…だろうか?

第1篇(12日記事)の前半は、私も応援している札苗小PTAの取り組みが紹介されていてそれは良かったのだが、「入退会自由をアピールすることで保護者の自主性を促そうと」というところにちょっとひっかかった。会長の彼は「入退会自由宣言」は人間として団体として基本的で当たり前のこととしてやらなければならないことと捉えている、と思っていたからである。私はそこに強く同意していた。活動を活性化するための“アピール”だったとは初耳なかんじであった。

彼がいつもブログで語っていることと、この記事とは、大して違わない…だろうか?

結局、タロとジロの犬権問題と同じように「それもあるだろうけどそれはそれとして」と置いとくための前振りのためにまるおさんは持ち出され、札苗小PTA会長に至ってはなんだか違う舞台で踊らされて讃えられてしまったように私には見えた。

個々の話をすれば、私はワンデーボランティアとか委員会廃止の取り組みなんかは、いいんじゃないかとは思う。PTA問題は加入問題が大きいけれども、実際の活動ストレスが弱まれば保護者間トラブルも比較的小さくなるのだからそれはいいことだと思う。
しかし、それはあくまで「会員となるか否か」の任意性が保たれ、建前的にも本質的にもいかなる差別・いじめ・排除の発生原因とならない自由で自主的な組織となり得たときに、その活動の仕方の選択肢として考えたときの話である。

そういう意味で語ってもいいなら、私はくじ引きもジャンケンも、欠席裁判も、「辞退するなら診断書提出」も、「先生の歓送迎会では無料芸者(参加費自腹)」でも、「退会するなら100万円払え」でも、「セミナーの参加率が低かったら責任とって裸踊り」でも、全部「いいんじゃない?」となる。
もちろん、入会前にきちんと説明し、同意を取って入会させ、子どもに何らの影響もないならば、である。

紙面を割いてバリエーションを多数紹介頂くのはまことにけっこうだが、「いやがる保護者をどのように巻き込んで活性化させて行くか」という視点から一歩も出ていないのは残念すぎる。
「強制一人一役」が「都度ボランティア募集」に制度的に変わったところで、「そもそもやってもやらなくてもいい活動である」という根底意識の共有をさまたげるのでは意味がない。むしろ「1年にたった1回のことがそんなに嫌なの!?」と強制の根拠としてより強く使われることにもなりかねない。ハードルを低くすればいいよねという話ではないのである。どろぼうも1万円はイケナイけど10円だったらいいよねという話をしても仕方がない。どうもそこが読売の記者はわかっていないように感じた。

締めの、「子どもの教育を学校とともに支えてきたPTAが今、地域活性化の核として新たな役割を担いはじめている」という結論めいた話は非常に「いきなり感」が強いのであるが、いったい4記事のうち、どの部分の検証を受けて導き出されたものであるのだろうか? 私は、「各地のPTAのようすをポツポツと紹介した記事」というふうに読んでいただけに、この結びには非常におどろいた。

☆山口キヌさんとタロ、ジロは仮名です。

たのしかったね?運動会

最近ではなぜか運動会は秋ではなくGWと夏休みの間に行われるのが主流になっているようだ。
三多摩小学校・中学校も、この時期に続けざまに行われ、なかなかに楽しいながらも忙しい週末続きであった。

小学校は、お決まりの徒競走のほかは、ちょっとひねったレクリエーション系の競技やかわいい演技などで、バラエティに富んでいるが、中学校のほうは、100m走・60m走・1000m走・二人三脚・全員リレー・部活対抗リレー・選抜リレーと、とにかく走ってばっかである。
鈍足王かつマスゲーム系も大嫌いだった子どもの頃の私にとって、運動会は何が楽しいのかさっぱりわからないイベントだったが、うちの子たちはあまり嫌がることもなくそこそこ楽しんでる様子なのは助かっている。

だが中学校の全員リレーで、ふと見ると泣いている女の子がいた。
めがねをはずして泣きながら、とぼとぼと歩いてゆっくりとトラックをまわっている。
まわりにはどんどん追い抜かれ、次の走者はバトンタッチラインでじりじりしながら待っている。
観客は、何が起きたのかよくわからないままに、ガンバレガンバレもう少しだよと声をかけている。
あと3メートルぐらいでラインに到着するというのに、ついに女の子は棒立ちになってしまった。
しゃくりあげはいっそう大きくなり、先生が走って励ましに行く。
観客の声援もいっそう大きくなる。
そのあいだに、さっき追い抜かれたクラスの選手が1周してまた迫ってくる。
女の子は、どうにかこうにか踏み出し、数歩あるいてやっとバトンを渡した。
ふらふらとフィールドに戻っても泣きやむことはなく、丸くうずくまってカメラマンのおじさんに慰められていた。

女の子がどういう経緯でそうなってしまったのかはわからない。
私が見た時には泣いていたので、もしかしてその直前にころんでショックで泣いてしまったのかもしれないが、特にひざや体操着がひどく汚れているということもなかった。
だから、何か精神的な・感情的な理由で泣いていたように見えた。
走ること自体が大嫌いだったのかも知れないし、観客の前で体操着で走るというのが苦痛だったのかも知れないし、全員リレーという状況がプレッシャーでたまらなかったのかもしれない。

あの女の子がそうだと断言するわけではないが、そういう感情のコントロールにちょっと困難さを抱えている子というのは、私の経験上で言うと2〜3%くらいはいる。
クラスに1人は、いるというような体感数字である。

もしどうしてもリレーをすることが苦しくてたまらない子がいる時、公教育が、そういう子の居場所を用意できないとしたら。体育祭に無理矢理出させて、泣かせることしかできないとしたら。これは非常に問題ではなかろうかと、私は思うのだ。
体育祭は、授業の一環ではあろうが、人生をトータルで見た時、それは単なる体育のお祭りという位置づけでしかない。やらないと命にかかわるわけでもないし、何かの価値を決めるわけでもない。現に、いま現在私と交流のある職場の人、ママ友達、近所の人、その他友人知人、だれひとりとして私の鈍足で迷惑をかけている人はいないし、そもそも自虐ギャグで言わない限りはだーれも知ることにもならない。知ったところで、どうでもいいはずだ。
体育祭に1人や2人出なかろうが、どうしても嫌な子がリレーを抜けて点数集計係になろうが、お祭りとしてなんの差し支えもないことは間違いない。

中学生が自殺をすると学校は「そんな予兆はなかった、まったく気づかなかった」と必ず言うが、自殺というのは極端な大事故であり、ほんとうは前兆となる小事故ならたくさん起きているはずなのである。小事故だからと無視し、圧力をかけて同一色にぬりこめるしか能のない教育であれば、大事故に至っても「気づきませんでした」としかいえないのは当然である。
少なくとも、死んでしまいたいくらいリレーが嫌な子、というのは絶対に実在する。そのような子が、「嫌です」と言う機会が与えられ、その代わりに体育祭でどんなふうに参加出来るかを考えることができ、それが可能であれば受け入れられる教育のあり方であって欲しいと私は思う。
もちろん、嫌なことから逃げさせるだけが教育ではない。乗り越えられると信じたら、励まし、勇気づけ、取り組ませるのも教育だ。
しかし、大勢の観客の前で大泣きになってしまい、リレーなのに立ち止まってしまうということは、本人だってショックにちがいない。いくら観客に大声援をもらっても、それが本人に充実感を与え成長の糧にしていけているとは、とうてい思えず、彼女はなにか大きく傷ついているようにしか見えなかった。自分が「リレーなんて大嫌い」組だからかもしれないが、胸が痛んだ。
叱咤激励し本人のためにやらせているつもりでも、死に追い込んでしまうことだってある。中学生以上ともなれば、本人に主張できる機会を与え、それに耳を傾けて行くことはとても大切なことだと思う。思春期の子どもが、「社会というものは、思っていることをそのまま主張など、とうていできない場所なのだ」と考えるようになるとしたら、それは教育の失敗だと、私は思っているのだ。

※本当に予兆をキャッチすることが難しい自殺というのもあると私は考えており、この記事は「学校は生徒の自殺を防げるはずだ」という主張ではありません。

ホーム

プロフィール

ぶきゃこ

Author:ぶきゃこ
東京多摩地区。
会社員しながら4匹にエサやり中。
母親としてはもう相当数無理あり。
中2以来、ずっと重度の中二病。
ツイッターもあるヨ→@ bkk858

最新コメント

最新記事

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

リンク

このブログをリンクに追加する

検索フォーム

月別アーカイブ

カテゴリ

PTA非会員日記 (108)
備忘・やりとりの記録 (68)
学校の謎 (16)
雑なモロモロ (34)
ごあいさつ (2)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。