2012-09

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話し合いは最善の解決法か

この弱小ブログにも若干の奇特な男性読者がいらっしゃるようなのでちょっと訊ねてみたいのだが、奥様や恋人に「ちょっと話し合いましょう」と言われたらどんな気がするか。
「おぉ、ちょうど良かった。俺も話し合いたかったんだ。さぁゆっくり座ってくれ」と喜ぶ人は、(これは私の推測に過ぎないのだが)結構少ないのではないだろうか。

複数の人の意見が異なる、という事態が発生した時、「話し合う」というのはフェアで、前向きで、関係者全員の意向を汲めて、皆が十分納得できる解決法のように考えられがちであるが、私はかなり懐疑的である。
「話し合い」も、結局はパワーゲームにすぎないことが多く、むしろ「話し合った」という変な実績がつくだけ、「話し合ったのだからこれ以上文句はないでしょ?」とばかりにその結論が妙に説得力をもつもののように強大化されてしまうこともあるのではないかと思う。
話し合ったからといって、その結論に賛同したと定義づけられても困るのである。

集団としてどうしても1つの選択肢をとらなければならない場合、決定をするためには「話し合い」はせざるを得ない。それは仕方がないと思うが、その集団の決定が個人の意思や価値観と等しいと解釈されても困るのである。

私が単に保護者だからという理由で自動的にPTAという団体に所属するのを辞退したい理由の1つもここにある。
さまざまな「自分にとっては意味(有意義さ)のわからない」活動を、私個人が賛同し支援し推進していると思われても困るからである。そういう意識が少しでもあるなら、そういう人間は団体の構成員としてはいない方がいいと思う。なぜなら300人の決定より301人の決定の方が、より正当性や説得力があるもののように社会では捉えられてしまいがちだからである。
本当は、皆の意思ではないのに、あたかも皆の意思であるかのように過大評価されてしまうと、とんでもない方向に突っ走ってしまう可能性もあると、私は考えている。
とくに、「PTAの意思=保護者の意思」と学校や行政側に簡易に捉えられるのだけは勘弁して欲しいと思う。

(そもそも話し合いすらまともに成立していない委任状総会で「これが保護者の総意である」と決定されるプロセスは、さらに問題なのであるが、とりあえずこの記事においてはそこを糾弾するのが目的ではないのでひとまず置いておく。)

「金も払う、手伝いもする、というなら入会したって同じでしょう!?」という方にはなかなかわかってはいただけない話だと思う。私もそこをひとりひとりになかなか説明して回ることは出来ないので、記事として書いてみた。
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「人任せ」について考える

なにやらのイベントをやる時に、子供だけ行かせると「人任せ」と言う人がいる。
では、大人の人手が必要なのかというと、実際にはそういうわけではない。
人手は2〜3人で十分だったりする。
それでも、親が来ないと「人任せ」と考える人がいる。
では、親は何を求められているのか?
と言えば、なんとな〜くそこらへんに集まって、なんとな〜くぺちゃくちゃしゃべって、なんとな〜く見ているというふるまいが暗黙のうちに求められていたりする。

私は、ちょっと変なのかもしれないけれども、自分の子どもとはいえ目的もなくまわりをうろつくのが何となく苦手である。
さすがに就学未満の子供については、「危険を防ぐ」という明確な目的があるから、付き添うのに違和感はないが、小学生以上であれば、「大人の人数が多ければ多いに越したことはない」というのも(私はそれがなんだかPTAの発想に通じるものがあるように感じているのだが)違うんじゃないかという気がしてしまう。

また、終着点の無い延々続く会話というのもよく目的がわからず、いわゆる幼稚園ママ流の「何時間にもわたる立ち話」というのもほとんどやったことがない。子供を幼稚園に行かせた経験はあるのだが、用が済めば帰ってしまう私のような母親が少数派であることに若干おどろいた記憶がある。
自閉症の子を持つ友達に聞いたことがあるのだが、彼(その子)は、「○○に行くよ」という目的を告げればスムーズに歩くことができるのだが、動物園見学のようなあっちをウロウロ、こっちをウロウロ、という「目的の定まらない歩行」というのが非常に苦手なんだそうだ。イライラしてパニックになってしまうという。
私の脳の作りもそれに近いのかもしれない。目的の明確でない行動が苦手という特性があるとすれば、うろうろと歩き回ってパトロールと称するとか、ベルマークのような費用対効果…じゃなかった労務対効果?っていうのそういうの? の極端に低い作業に「何か別の意義を発見してそれなりに楽しむ」ということができなくてもまあ不思議ではない。かな? いや、気にしないでください、ちょっと正当化してみただけだから。

こう書くと人付き合いが嫌いなようだが、別にそんなことはない。友達は大好きだしこれでも大切にしているのである。ただそういう時間の使い方が好きではないだけだ。

なんというか子供は子供、私は私であって、それぞれやることがあるわけである。私の場合仕事のない時間は家事をやらなければならないし、趣味にも時間を使いたい。仕事のための勉強も継続的にしなければならない。子供のために時間を割くことは苦痛ではないが、必要のないことまで「子供のため」と唱えて配分を増やせば増やすほどいいとも思えない。

しかし、なんとなく日本社会にいて肌で感じることだが、母親という役割を全人格全生活のうち一部のみと割り切る態度は、「人任せな子育て」という批判を受けるようである。
教師の仕事ぶりがおかしいと思い指摘すると「自分の子どもがお世話になっているのに」となる。
仕事に出ている間は、当然育児ができないから保育所なりベビーシッターなりに預けるわけだが、それも「人任せ」という批判を受ける。
まさかそのようなことを面と向かって言う人はいないが、匿名性の高い場面(インターネットなどや、マスコミで紹介されるアンケートなど)では「人任せ」という表現は実際に見られる。

母親は全身全霊全時間を子どもを育てることに捧げるのが本来の姿、という概念は、かなり日本人の心に深く根を張っているような気がするのである。だからそれをしていない間のことを「人に任せている」という表現で呼ばれるのであろう。

ひたすら謝罪の推薦委員…

推薦委員のKさんという人から電話がきた。
「間違えて、推薦用紙を配布してしまいました。本当に申し訳ございませんでした。今後二度と、このようなことがないように、気をつけます」とのことであった。

そうそう、確かに先日推薦用紙はきた。
推薦用紙というのが、なじみのない方もいらっしゃるかもしれないが、要は執行部役員を自薦・他薦するための紙である。
自薦又は同じクラスの保護者から1人、「必ず」推薦することになっている。もし誰の名前も書かなければ、「電話でお問い合わせ」が来ることになっている。
そしてそれとは別の選出枠があり、これは自分のクラス以外から1人、推薦することになっていて、こちらは任意となっている。
実は、こちらの「クラス外枠」も数年前まで強制推薦だった。私が非常に強い口調で苦情を書いて出したことがあり、それが影響したのかどうかはわからないが任意となった。
どういうことかというと、特にクラス替えをしたこともない1年生の保護者など、クラス外の保護者の誰が役員に適しているかなど、判断のしようもない。当たり前である。そのような人たちに「無理矢理にでもどうしても1人選べ」と言われたら、どうするのか。多くの場合、同じ幼稚園や保育園出身の友達の保護者の名前を書くのははばかられる。「役を押しつけて申し訳ない」と思うからである。だから、顔と名前が一致するが申し訳ないとまでは思わない程度の人の名前を書くことになる。
私は子どもの数が多いため、いろいろな学年の多くの人に顔を知られている。そういう経緯で、私が「多数の人がぶきゃこさんを推薦されました!」と言われ、互選会(推薦された人が呼び出される集まりで、役員決定の場)に来いと言われたことがあった。そのときに「クラス外推薦などどれだけ無責任なものか、ふざけるな」とキレたというわけである。
私は以前から、会員であっても「私は誰も推薦などしません。その人が引き受けられる状況かどうかわからないのに無責任に推薦などできません。自薦者が1人もいず、それでもどうしても決めなきゃならないというなら、くじにしてください。私が当たったらやりますよ」などのようなことを書いて出していた。

そして昨年は、私がクレーマーだと見なされたのか、「絶対に推薦しないのなら配っても無駄」ということなのか、推薦用紙が来なかった。

しかし今年はまた推薦用紙がきて、脈絡がよくわからなかったのだが、「お役目お疲れ様です。非会員ですのでよろしくお願いします」みたいなことを書いて出したと思う。

そうしたところ、冒頭の御挨拶であった。
いくら私が文句タレだと言っても、間違えて紙を配布したくらいでそんなに怒るわけはない。間違えたんだな、あるいは私だけ配らないのも面倒くさいから配ったんだろう、くらいにしか考えない。
しかし冒頭のように、ハレモノにさわるようにひたすら平身低頭してKさんは謝罪をされるのであった。
なんか私、相当のキチだと思われてるのかしら…とちょっと思った夜であった。
対等な保護者同士であるのに紙の配布誤りくらいであんなに謝って、気の毒な話である…。

絆作りとしてのPTA

私たちはほっといても、いろいろな人と何かを通じて知り合う。
知り合った後、気が合えばだんだんと友達になっていく。
したがって知り合う機会が多ければ多いほど、より多くの人と友達になる可能性が増える。
そういう単純な意味では「PTAは絆作りに役立つ」と言えるかもしれない。

私が社会の中で働きはじめた昭和〜平成の移行期は一種の起業ブームであったのか、身の回りで会社を起こす人たちが結構たくさんいた。
そして友達同士で事業を始めると、友達でなくなってしまうケースをいくつも目にした。

別に管理者がいる上での使用人同士である場合、友情にひびがはいるケースはあまりない。
しかし、共同でマネジメントに関わろうとしたとたん、友情が壊れるケースは珍しくない。
それは、考え方の違いがモロにぶつかり、どちらの考え方を実業ベースに乗せるかでお互いの利害に直接響いてしまうからなのではないかと思う。ただ単に「どちらのアイディアを生かすか」という折衝−事業においては単なるプラン決定のプロセスにすぎないのに−が、その決定が及ぼす影響の重大さから、なにか勝ち負けのようになってしまい、人格を尊重されなかったという思いを産む。ということのようである。
根拠を示せるわけでもなく統計をとっている話でもないが、事業によって友情が壊れた件をいくつかそばで体験した身としてはそのように総括している。

人と人とはほんらい考え方が異なるものなのである。そこを吸収して乗り越えるだけの「捨てがたいメリット」でもない限り、友達同士で「事業」をやるのは慎重になった方がいいと思う。

逆もまた真なりで、たとえば会社という単位の社会のなかで、同僚が友達になることはあっても上司や部下が「友達」になることは通常ないし、あるいは同僚であっても例えばその上のポストが1つしかなかったりするシリアスな状況において「友達」になることはないだろう。

「友達」の概念もいろいろかもしれないが、少なくとも私にとっては友達というのは命令を下したり、なにかを強制したり、許可しなかったり、押しつけたり、自分が嫌なことをかわりにやらせたりする対象ではない。逆ももちろんで、そういったことを私にしてくる人がいるとしたら、「友達」という認識ではなくなってしまうと思う。
私にとっては友達は愛するもの、楽しく話すもの、思いやりを分かち合えるものでしかないし、そこがクリアできているなら、いろいろなものごとに対する考え方が私と違っても別にかまわない。というかいろいろな友達がいた方が面白い。そこに事業の論理をもちこみたくないのである。

「保護者同士」という関係を健全に結びたい場合、単純に「知り合い楽しむ場」を作るだけならよいのだが、PTAというお仕着せの事業を無批判に継承し、それがマストなものになってしまい、やれ委員長だ会長だ、やれ規約だ書式だ会計監査だとやり始めたあたりから、「絆作り」より「絆をぶっ壊す」ほうに働きはじめるような気がする。
仲良いふりして相互監視。すすんで手を上げるように見せかけて実は「高学年で重い役をやりたくないから」。辛い中無理して引き受けた人を尻目に「逃げ切ったー!」と快哉を小声で叫ぶ人…

私は、今年から「事業ごっこ」に加わることを拒否した。地域のつながり、助け合い、友達を大切にする気持ちを捨てたわけでもないし、絆作りを拒否したわけでもない。
PTAは「知り合うきっかけを作る」という意味では良い面を持つが、そのあと事業ごっこに否応なく巻き込まれるという点が「絆作りツール」としては私的にアウトである。
そういう理由もあり退会した。
そのような私に(退会したいとちらっとでも考えたことのある人の多くが、そうなるのではないかと恐れるように)今後友達がひとりもいなくなるかどうか、ゆっくり見極めたいと思っている。

H24.9.11 ぶきゃこからPTAへ

三多摩小学校PTA本部会計様

                    ぶきゃこ

          ご 連 絡

 いつもお世話になっております。 
 先日6月5日にご請求された内容につきまして、下記の通りご連絡致します。

・ お便り代¥300について
支払う必要がないとの旨、校長先生に確認済みです。
当方の意思に関わらず配布された印刷物等につきましては今後ご返却は致しかねますので、申し訳ございませんが予めご了承ください。

・ PTA保険について
非会員であっても、PTAが取りまとめている活動においての事故はPTA保険で補償される旨、校長先生に確認済みです。
PTA様からのご依頼でお手伝いをお引き受けした場合の事故発生時は、保険請求させていただきます。お忙しい中申し訳ございませんが、事務処理方よろしくお願い致します。

・ 退会届について
「具体的な退会理由を記入して再提出」とのご要請ですが、請求の根拠が不明です。下記のいずれかをご提示いただければ記載致しますのでご返送下さい。
① 退会時には具体的な理由を述べなければ退会できない、と定めたPTA会則
② 退会時には具体的な理由を記載した退会届を提出します、と誓約した当方署名の入会申込書

 以上 お手数をおかけしますが何卒よろしくお願いいたします。
以 上

専業vs兼業

Pフォーサーからよく聞かれる論旨がある。

働いている人は仕事を理由に断れる。
でも専業主婦は断る理由がつくれない。
だから、専業主婦のほうがより多くターゲットにされる。
これは不公平なことである。

BBSなどでこのたぐいの話(専業かどうかがからんでくる話)になると、だいたいにおいて感情的なやり取りとなり、「専業・パート・フルタイムどれが一番大変か」という「大変自慢合戦」になり、最後には人格をこき下ろし、子育ての仕方を批判し、金の使い方や帰宅時刻や爪の長さや給与の額まで罵る仕儀となる。
「そんな風になってるのは見たことない」とおっしゃる方もおられようが、私はけっこう何度もそのような「炎上」を見たことがある。
まあ私のネット歴もモデムでピーヒョロやってるころからだから長過ぎるといえば長過ぎるのだが。

なんというか、ヨーイドンのところが違うのじゃないかと思うのである。
というのは、
「PTAの活動要請(役員就任など)は、理由がなければ断れない(=本来は義務である)」
という最初の前提が誤っていることを誰も訂正しないから、そういう泥沼になっちゃうんじゃないかと思うのだ。
「私は義務を果たすことを求められ、あの人は義務を免除されるとすれば、それは不公平なことだ」
という感情の話に、有職か無職かは本来関係がないはずだ。なにか不当に生活を侵害するものでかつ不公平に思われるものがあるとすれば、「それは本当に私が背負っている義務なのか。そこまで不当に侵害してくる根拠は何か」がまず最初に問われるべきで、「負担を公平にすべき」という議論が最初に来るのはおかしいはずである。違うだろうか。それなのにそこはすっとばされ、いつのまにか前提となった「義務負担」が「現実的に、公平にしばしばならない理由」として「仕事」が入り込んでくるため、その流れで「働いている女はズルイ」という話が登場してくるわけである。
※あえて「働いている人」ではなく「働いている女」と書いた。
 そこの根強い感情については、また後日書きたいと思う。

「任意加入」がしっかり周知されていれば、とうぜん誰も義務視はしなくなる。断るのにわざわざ理由など要るはずはない。そういう前提を共有した後の「役の勧誘」であれば、「仕事を理由にできるWMはずるい」などというトンチンカンな話も少なくなると思うのだが、楽観に過ぎるだろうか。
はっきり言って、人が働いていようがいまいが、そんなの普通「しらねーよ」である。
「他人が働いているかどうか」が、そんなに問題になること自体、病んでいるような気がしてしまう。

なぜ文句と受け止めるのか

さてさて、いつかじっくり考えてみたいと思っていた事なのであるが
PTA役員の人たちが「意見=文句」と受け止めてしまいがちなのはどうしてなのだろう?

過去に書いた事があるが、「手伝いが負担です」という意見に対し、「不平不満を言うのは簡単です。どうしたらいいかを提案してください」と返すのを見た事がある。

しかし、「負担です」も立派な意見の1つではないだろうか?
負担と思う人がいるという情報があれば、
・同様の事を思っているメンバーがどれくらいの割合でいるのか?
・その人たちは、どうすれば負担にならなくなるか?
・負担を押してでもやる価値がある業務かどうか?
・それを続ける場合、不満を持つ人にどのように理解を求めるか?
・それを削減する場合、それによって起こる問題点とそれを解決する方法
などなど、検討しなければならないことは沢山出てくるし、それは本部(運営部門)の仕事だと思う。「負担です」とただ言っただけの人に、「完成構築されたスキームを提示しなければ単なる不平不満に過ぎない」と突き返すのであれば、もはや意見など「受け付けません」と言っているのと同然だろう。
そういったことをディスカッションし、よりよい解を求め、そのために必要な仕事を探索し配分し協力し合う。それをするために、それぞれの仕事や家事を休んででもミーティングを行っているのでは? と思うのだが、そのようなことをする気は(少なくとも本部は)全くないようなのである。

そのようなこと(たかが一会員のつぶやきを拾い、意見集約し実行ベースにのせる作業)をまったくやる気がない、むしろ迷惑がるというのは、これはその役職(会長・副などの)に就いていることが、会員が皆なるべく満足して活動が出来るように尽力する、ということをミッションとしてやっていることではない、ということの表れである。

では、彼らが感じているミッションとは何か?
これは、(このブログを何らかのきっかけで訪れてくださっている方々のうち多くが感じているのではないかと思うが)既存のPTAという組織を「しっかり存続させる」ことにつきるように思う。
つまり、存続させることが、子供たちのためになる、と信じて疑わないのだ。
「存続させる活動の内容を再検討しつづけ最適化させる作業」には、あまり興味がない。
なぜなら、「しっかり存続させて全員が参加して活動が活性化する」ことにより満足感が得られるのであり、その活動の内容をああでもないこうでもないとこねくり回すことは、ミッションの達成を阻害こそすれ充実させるものにはならないからである。

単なる上意下達であれば、プリント配布で十分ではないかと思う。
「意見はいちいち聞いてられません」というのが本音であれば、単純に参加・不参加を決められる「本来の任意団体」になれば良いだけだと思う。
全員参加強制で上意下達のみ…であれば、それって徴兵制の軍隊かなんかと同じだろう。
そんなものが、たかが子供に旗を振るだけのために、組織されてよいわけはないのだ。

しかし、勝手に活動策定して強制してやらせる、だけでは彼らの満足感に瑕疵が発生してしまうのである。
「全員参加、子供のために保護者の皆さんが喜んで積極的に協力」というところが大切なのだ。そうでないと困る。
であるから、活動を変更したい(特に、やりたくない、削減したい)と意見を言う人は、そこに傷をつけ満足感の構築作業の足を引っ張る人なのである。
だから、「意見は文句」としか捉えられないのではないだろうか。

私が彼らのことを、「守りたい勢力の人」=Pフォーサーと定義しているのは、そういう意味でもある。
(あっ、PTA役員=Pフォーサーでは、ありません)

役員決めの思い出

どうにも後味の悪い思い出がある。
私が昨年度学級委員だった事は以前にお話ししたが、
期の終わりに、学級委員が次年度の各種委員を決めるのが慣例となっていた。
無理矢理押しつける事だけはしたくないため、まだ委員役員の未経験者対象に年明けぐらいから打診を繰り返していたが、やはり誰にも快諾はしてもらえない。

しかし、「○○委員は誰々さん」ということを本部に報告しなければならないため、「誰にも決まりませんでしたぁ〜」というわけにもいかない。
とうとう決まらぬまま春を迎え、「明日の保護者会で決めなければ」というリミットの日になってしまい、もうこれはまた自分が(すでに出していたPTA退会届を撤回して)役を引き受けるしかないか…と思っていた矢先、学級委員のペアの相方から夜、電話がかかってきた。
「もう、これ以上断るならくじびきになるって言うしかないよ」と言う。

くじびきかぁ…

Think! PTA!のメンバーの方々にはトンデモナイとおこられてしまうかもしれないが、私自身はくじびき自体はあまり悪い事だとは思っていない。
ただし、「ちっ、ひきあてちゃったらやるか」という人々の集まりの中で行われた場合である。
メンドクサイけど、誰かがやらなきゃならない事、っていうのは社会の中ではままあるものだから、「当たりひいたらやってやるよ」という人々の間ではくじびきもサバサバしていいものではないかと思う。

しかし、PTAの役員になる事が、それほどのもの(=誰かが絶対にやらなきゃならない事)か? 非常になんか腑に落ちない感じなのである。
しかも、それを泣くほど嫌がる人がいるんでしょ?
言い訳こじつけてでも、絶対に避けて通りたい人がいるんでしょ?
引き受けてくれたとしても、その人の気が1年間すごーく重くなってしまうのでしょ?
じゃあ、いいじゃん。別になきゃ困るもんでもないし。
ヤメヤメ。

↑と心では思うのであるが、相方は「くじびき」と言うのであった。

そこで、ヘタレな話ではあるが、「くじびきになっても了承してもらえるか」という内容で1人1人きいてまわることにした。

会社から帰って疲れた体で家族のごはんを作って、テーブルに並べた後、「先に食べてて」と言い、自分はひきこもって「夜分ごめんね」と謝りながら電話&メール三昧である。
PTAにはいろいろな時間を取られてきたが、もともと少ない家族の時間を奪われる事が一番腹が立ってきた(まぁそれも退会の理由の1つだ)。

そうしていたところ土壇場で、「えーまだ決まらないの?お疲れ様。子供の事でくじびきなんて嫌だよね…じゃあ、私やるよ」ということで、私の友だちのAさんが引き受けてくれたのである。
しかしAさんは、今まで本当にできる範囲でのいろいろな貢献をしてくれた人なのである。
「PTA委員・役員」という形でではないが、できる別な形で一生懸命やってくれていた。
フルタイムで働き、職場は遠くて通勤時間もかかり、しかも下の子(乳幼児)もかかえている。
私としては、ほかに「OKしてもらえるのでは…」とほのかに期待していた人は何人もいた。
見た目や環境でその人の忙しさを判断してはいけないことは重々わかっているが、やはり子供が小学生と中学生1人ずつで、平日もいろいろなお店や会合に出没していると聞けば、少なくともAさんよりは、頼んでも罪悪感がないような気がしてしまうのである。
しかし、結局Aさんになってしまった。
保護者会でも、「Aさんはとても忙しくいろいろ抱えてますしこの役は負担が重いと思うので、もし他に『やりましょう』という方がいらっしゃったら助かるのですが…」と打診してみたが、誰も引き受けてくれる人はいなかった。というかそもそも来ない人も多かった。
そこで、仕事をカットする案をいくつかだし、「ここでは決められないけど、他のクラスの委員さんとも話し合って、最低限の負担の少ない方法でやってもらえればいいのではないでしょうか。皆さんの中で、仕事をはぶかれては困るという方いらっしゃいますか?」と聞いてみた。
誰も何も言わない。アタリマエである。
そんなこと言ったら、「じゃあアナタやってもらえますか」となるからである。

聞くところによるとその後、仕事をはぶかせないナニモノかが現われてやはり大変な事になっていってしまったらしいのであるが、それはまた別の機会に書く。

ともかく、こうして委員は決まった。

しかし、何日か後に、Aさんから、実は1週間ほど前にお父様が亡くなっていた事を聞いたのであった。
看病が続いていたので、PTAは断っていたが、亡くなってしまったので気持ちを切り替えて引き受ける事にしたのだと。
それを聞いて、知らずに役をほぼ押しつけてしまった事を後悔し、私はなんというかもう本当に、この団体に所属しているのが心底イヤになってしまった。いや正確にはもう退会していたので関係はないが、なんでこんな団体があるんだろう? 誰が何をしたくてこのような組織になっているのだろう? と、不審な気持ちでいっぱいになってしまった。

私の「後味の悪い思い出」というのは、上記のような事である。
「私たちは誰に何をやらされているのか」という問いが私の中で始まったのは、このあたりからだったかもしれない。

学校って支えなきゃいけないもの?

Pフォーサーがよく使う、
「学校は、先生、保護者、地域で支えられている」
という表現について考えてみよう。
この物言いは、言葉として大変美しい響きがあり、これ自体に異を唱えるひとは少ないであろう。
私など軽薄であるから、油断していれば簡単に「うんうんそれはその通り」などと言いそうになる。
しかしながら、よくよく目を凝らしてこの物言いをみてみると、何かどこかがおかしいのではないかという気がしてくる。

子供はただ単に学校に通わせてカリキュラムを受講させるだけでは育たない。保護者が、スムーズに学校に通えるように物心両面から支援する必要があることは言うまでもないし、それは法律で義務づけられていることでもある。
地域の方々にも「未成熟な子供が毎日自力で学校に通っている」という状況を理解してもらう必要がある。何かやらかしても許せという意味ではないが、子供が多数通学したり放課後遊ぶことで迷惑もかけるのだから、継続的に情報提供し理解をお願いしていくことは必要だろう。

そういうことが言いたいのであれば、「子供は、学校、先生、保護者、地域で支える必要がある」という表現になろう。それぞれに役割があり、そのどれも不可欠なものなのである。
しかし、「学校は、先生、保護者、地域で支えられている」という表現には微妙な引っ掛かりを感じる。
学校というのは(今回公立という前提で話すが)、税金を資金とし、ある目的を遂行するためにそれ自体で完結した「閉じたスキーム」でなければならないはずだ。同じ税金を投入していながら、「こっちは保護者の協力が多いからAランクの教育水準、あっちは保護者が手伝わないからBランクの教育水準」ということがあっていいはずがない。
そういう意味で、「学校は保護者で支えられてます」と堂々と言っちゃうのはどうなんだ?と首をかしげるのである。
それを言う者が教師や校長であればなおさら、「なんか甘えてませんかぁ〜?こっちはこっちで仕事も親子の生活もありますよ?」と訊きたくなってしまう。

この記事は、保護者参加型の授業や行事を否定するものではない。
しかし、それらも強制的であるとか、割り振り当番的であるとか、保護者の参加がなくては成り立たないようなものであっては、本来ならないものだと思う。

また、「宿題の○つけ親にやらせないでよ!」とか、「ペットボトル3本持って来いとか前の晩に言わないでよ!」などということを主張しているわけでもないので、そこらへんはわかってちょーだいね。(揚げ足取られないようにするのも大変だ…)

H24.8.29 校長からぶきゃこヘ

ぶきゃこ様
                              三多摩小校長 南野何河岸

いつも、学校教育にご支援・ご協力をいただき、ありがとうございます。
7月19日にいただきましたお手紙について、回答をさせていただきます。20日が終業式でしたので、手紙が本日になってしまったことお許しください。
さて、今までの経緯を私が誤解をしていたことがありますので、訂正いたします。登校時の保護者による旗振りですが、保護者の方が主体的に子どもの安全を願い、旗振りを行ってきたということです。それを、PTAが取りまとめていたということです。本校の場合は、学校からの依頼で行ってきたわけでは、ないということがわかりましたので、訂正いたします(私が赴任する前から、学校が保護者に対して旗振りをお願いして、行ってきたと思っていました)。

①PTA保険について
・PTAが取りまとめ、依頼された旗振り等については、会員の皆様をはじめ非会員の方も保険の適応(原文ママ)があります。しかし、学校からだけの依頼では、保険の適応は一般的にはありません。ケースによっての違いはあるようです。
・I様は、保険関係で仕事をされている方です。資格の有無に関する問題は一切ありません。また、今回の「4」についての説明は、PTA会員以外の方であっても保険の内容に関する問題であり、契約内容ではないので全く問題がないそうです。

②保険について
・児童の登下校についての事故は、学校管理下での事故になりますので、『独立行政法人日本スポーツ振興センター』との災害共済付契約を結んでいます。よって、問題ありません。ただし、通学路を子どもは通って通学することが必要です。
・先ほども記載させていただきましたが、登下校の通学路の旗振りに関しては、PTAが取りまとめ、依頼されて行われていることに関しては、PTA保険が適応されます。しかし、完全なボランティアによる見守りについては、保険が適応されないと思われます。本校のPTAによる旗振りは、保護者が主体となり、PTAが取りまとめて活動をしていただいています。
校外での、旗振りに関しましては、PTAが関わりを持っていただくことが必要です(保険の関係から)。それをご承知で、PTAとは無関係に旗振りを今後ぶきゃこ様がやっていただけるかどうかは、ぶきゃこ様のご判断でお願いします(もちろん、PTAの割り振りの中で、ぶきゃこ様が実施された場合は、PTA保険の適応があると思います「4」に関する理由で)。

③PTAは、「児童生徒の健全な成長を図ることを目的とし、親や教師とが協力して、学校及び家庭における教育に関し、理解を深め、その教育の振興につとめ、さらに、児童生徒の校外における生活の指導、地域における教育環境の改善、充実を図るため会員相互の学習、その他必要な活動を行う団体(PTAの目的)」です。当市でも、小学校、中学校の全校が、加入しています。
本校のPTAの運営面にご意見があることをお受けいたしました。ぶきゃこ様にはPTAの主旨(原文ママ)につきまして、ご理解をいただきたいと考えています。
「PTAは非会員も含めた全保護者の活動を定めて指示する権限があるか」とのご質問ですが、保険の関係で主体となっていただいたほうが良いこと(例えば旗振り)や保護者の学習の機会として、PTAが主体になっての活動「家庭教育セミナー」「親子で楽しむ音楽会」等はあります。これは、子供の健全育成の観点から必要であると学校でも判断しているらです。もし、活動内容に不適切なことがあれば、アドバイザーとしての校長からその活動にストップをかけることもあります。しかし、「親子で楽しむ音楽会」については、運営面で関わる必要は全くないと思います。しかし、子供さんが、参加してみたいと考えたなら、参加させて欲しいと思います。
授業のお手伝い、例えば「地域巡りの安全の見守り」とか「朝読み」等は、保護者へ学校からの依頼ですので、あくまでもボランティアですが、今後PTAも協賛として名前を入れていただければ、保険の面でも保障がつくのかとも考えられます(PTA加入の方、又は、PTAから依頼を受けた方)。
ぶきゃこ様は、PTAを抜けられていますので、PTA主体の活動(PTA総会・親子で楽しむ音楽会)については、参加する必要はありません。学校が主体での活動については、ご判断ください。

PTA問題はけっこう人気

「PTAのあり方にそんなにこだわるのは変だ」「イヤなら口実つけて断ればいい」「そんなもの適当にやり過ごすのが大人」「大したことではないはずだ。たった6年間ぐらい我慢もできないの」などといった論調で、PTA批判をやめさせようとする人たちがいる。
これは、PTA問題を語っているサイト、BBS、ブログ、どこにでも必ず居るといっていい。

私は、「社会人はみな普通にこなしている瑣末なことにこだわっている異常な偏執狂」なのだろうか。
もしかしたらそうなのかもしれないし、そうであっても私自身は別にかまわないのであるが、本当にそうであるかどうかは疑問の残るところである。

なぜなら、子育て中の人々が集まるところでPTA批判をすると、ネット・リアルを問わずどこでも非常な盛り上がりを見せるものだからである。「炎上」と言ってもいいくらいである。皆さんも経験があるのではないだろうか。
PTA問題には非常に関心が集まる。これは事実である。
私はそこに、このコメントでまるおさんが表現されている「多くの人が感じているもやもや」と、それを何とか抑え込もう、なかったことにして現状保存、維持しようとする「あるパワー」を感じる。
パワーというと穏やかでないようだが、なんというか意図の集合? 「PTAは今まで通りみんな参加、全員協力でないと困るんだよ」という、集団心理のようなものであろうか。
今後このブログでこの概念を何度か使うような気がするので、適切かどうかはわからないがいちおうこれを「Pフォース」と名付けてみよう。
PはPTAのPと言ってもいいだろうが、なにかPreservationという言葉がしっくりくるような気もするので、それのPと言ってもいい。

まとめると、「もやもや」と「Pフォース」はそれぞれかなりの強度と量を持って子育て界に現存している。その理由などはひとまずおいておくとしてもこれは事実である。そして多くの方が、これについては「実感」をされているのではないだろうか?

だからこそ、ここのような弱小一無名ブログでも、ときどき訪れてコメントしてくださる方がいらっしゃるのかもしれない。
まっ、私が今抱えている問題がメジャーであれマイナーであれ、どちらにしろ私はほそぼそと生き(細くはない)、ほそぼそと書いていくだけの話なのであるが。

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Author:ぶきゃこ
東京多摩地区。
会社員しながら4匹にエサやり中。
母親としてはもう相当数無理あり。
中2以来、ずっと重度の中二病。
ツイッターもあるヨ→@ bkk858

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