2017-06

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モヤらない人のほうが多いからこうなんでしょうけどもねぇ、ええきっと。

次郎の学年でこの秋、移動教室があるので、説明会に行ってきた。夫が。
私はもう4度目なので、だいたいのところはわかっている。行かなくても資料で確認すれば大丈夫かなとも思ったのだが、集金もあることだし、今回は夫が都合が付くので行ってもらったのだ。

そして、案の定というか何というか、モヤって帰ってこられましたとさ。

これ、学校もそうだし、PTAもそうだし、あすくらへん全体の傾向なのだが、平日の日時を指定して人を集める→資料を配る→それを読み上げるということをやるわけね。
日本語を勉強中の外国の方ならなかなか勉強になる話ではあるだろうが、ネイティブ日本人を平日呼び出してやるこっちゃないだろと私は思うわけ。
いやまあ、人間が全員、平日仕事をしとるわけではないだろうが、むつかしい漢字を教養もないのに無理矢理持ち出してくるならば仕事をしとる「蓋然性」が高いわけでしょ。なんでそんな日時をえらんでそういうことをやるかなと。

いやあの、土曜日にやれってんじゃないですよ。先生もお仕事は平日にしたいんだろうし、平日開催なら平日開催でいいと思うんだけども、何十人も都合をつけて集まってるんだから、集まるなりの意味のあることやったらいいんじゃないかと思うんだよね。

たとえば、資料は事前に配っておいて、「これ以外の細かい質問とかに答えて共有したり、改善意見があれば話しあいたいから来てくれや」とかだったらわかるんだよね。「これない人は子どもに質問や確認したい事項持たせておいて」とかね。
先生だって、各保護者からおんなじようなこと何回も何回も質問されたくないだろうし。

それなのに、人をわざわざ集めておいて「読み上げ」をやる。
これにどんな深い意味があるのか分からないが、私は、授業がそういうふうにいつも行われているから、なんか学校周りの「クセ」としてそういう進行がされるんじゃないかと思ってる。
あとはまあ、混乱するようなことは極力したくないというかね。

新入社員に会議の進行役なんかをやらせると、初めはけっこうそういうやり方をするのは何でなんだろうなぁ〜とぼんやり思ってたりしたんだけどこれ、学校教育のたまものなのかなもしかすると。で、読み上げてる途中で先輩社員に「あのさ〜オレ字読めるから」などと言われたりして。

( ´_`) (´・Д・) (´ω`)

そういう「学校文化」に親和性の低い私は、PTAもそうだし、学校の説明会なんかでもそうだし、何度もそういう場でぐったりして帰っていたのだけれども、いつしか「あー、ああいうのはそういうもんだ」と達観してしまって、あまりあらためて口にすることもなくなっていたところであった。

で、特に深く考えずに今回夫に行ってもらったところ、夫もやはりぐったりして帰ってきたという話でした。

そしてエンエンと長くてだるい読み上げ会の最後は、先生が「これで説明会は終了です。何かご質問などありましたら、のちほどいつでも私に御連絡下さい」と言ったとのことで吹き出してしまった。そんな個別対応するくらいだったら最初から質疑応答すれよ人集めてんだから! などと夫はココロの中で思ったらしいのだが、それでもとにかく「1分でも早く帰れる手段をチョイス」つまり、終始だまっていたそうです。

「思ったこと言っても良かったんじゃない?」と私が言ったところ、
「そうしようと思ったけど、あーここんちは母親がああだと思ったら父親もこんなんかーとかおもわれるしさー」
「ぶきゃ山さんちって夫婦してテンテンテン…とかおもわれたらいけないから大人しくしなきゃいけないかなとおもってさー」
などなどブツブツ言っておって、読まなくてもいい空気読んでしまう人は大変ですな。。。あっはっは。

ちなみに説明会に来てた「オヤジ」は、学年全体でウチともう1人だけだったらしいです。
それもすごいね。
オヤジのみなさま、たまには休み取って学校の集まりに当事者として行ってみた方がいいっすよ。PTAしなくてもいいからさ。
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へそまがりの小さな呟き

うちの子たちがまだ小さい頃、シュタイナー教育というのが一部で流行していた。子供に情報機器を与えず、自然の中で育て、自然の材料で遊ばせ…というたぐいのものである。
い、いや、シュタイナー教育は有名なドイツの博士だかなんだかが考案した、立派でちゃんとした教育体系であり、しっかりした学校もあちこちにあるので、「というたぐいのもの」とか「だかなんだか」で片付けていいようなものではないのであるが、そこはそれ猫に万札というか、犬にマタタビというか、しょせんその価値を理解しない人に評させてもこのような惨状になるということでどうかご理解いただきたい。PTAふうに言うと、ご了承下さい。

で、そのシュタイナー教育を信奉していて、家が羊毛ボールと松ぼっくりだらけだった友人が当時いたのであるが、その人がある日、ある私立保育園の噂を聞きつけてきて私にいっしょに見学に行かないかと誘ってきたことがあった。
「とってもいいらしいよ!」と熱心に言うのである。
「どういいの?」と尋ねると、
「シュタイナーらしいよ」と答える。
「シュタイナーだとどういいの?」とさらに聞くと、
「自然とか哲学とか人智とか…難しくてよくわかんなかったけど、でも、とにかくシュタイナーだって」
とのこと。
うむむ…。

もちろん私は、シュタイナー教育を否定するわけではない。というか、否定するほど知らないし、たとえくわしく知っていたとしても、「子供にどんな教育がいいかなんて出たとこ勝負」「なるたけがんばろう」くらいがせいぜいの身の丈で、「あなたはどんな方針で育児をしてきましたか?」ときかれても、「ハイ、真っ暗闇の中を“きっとこっちだ!”と根拠もなく子供抱えて走ってきてしまって、いまどこに居るのかも正直分かりません!」程度なのがホントのところなのである。
だから、シュタイナーという言葉だけでつられていってしまう友人のことを、まったく笑えるわけではない。

ところで何でいきなりシュタイナー教育のことを思い出したかというと、どうも最近「コミュニティスクール」という言葉が、なにか善いことのようにずんずん独り歩きしているような気がしてならなく、そのもてはやされぶりがなんとなくシュタイナー礼賛のかんじに似ているなぁとふと思ったからなのであった。

学校と地域の連携強化へ「コミュニティースクール」「チーム学校」促進 中教審が答申

コミュニティスクールというのは、文科省の定義によると学校運営協議会制度をカッコよく呼び変えた名称、あるいはその協議会を設置している学校の呼称で、「学校と保護者や地域の皆さんがともに知恵を出し合い、学校運営に意見を反映させることで、一緒に協働しながら子どもたちの豊かな成長を支え『地域とともにある学校づくり』を進める仕組み」であるとのことである。
同省は大変よさげなパンフレットを作成し、「コミュニティ・スクールの取組で広がる魅力」と銘打って、

<子供に とっての魅力>
● 子供たちの学びや体験活動が充実します。
● 自己肯定感や他人を思いやる心が育ちます。
● 地域の担い手としての自覚が高まります。
● 防犯・防災等の対策によって安心・安全な生活ができます。

<教職員に とっての魅力>
● 地域の人々の理解と協力を得た学校運営が実現します。
● 地域人材を活用した教育活動が充実します。
● 地域の協力により子供と向き合う時間が確保できます。

<保護者に とっての魅力>
● 学校や地域に対する理解が深まります。
● 地域の中で子供たちが育てられているという安心感があります。
● 保護者同士や地域の人々との人間関係が構築できます。

<地域の人々に とっての魅力>
● 経験を生かすことで生きがいや自己有用感につながります。
● 学校が社会的つながり、地域のよりどころとなります。
● 学校を中心とした地域ネットワークが形成されます。
● 地域の防犯・防災体制等が構築できます。

とメリットをうたいあげている。
なるほど、いいことづくめではないか。
素晴らしい。というよりこんなに素晴らしいことを、何故いままでやっていなかったのか? 文科省はこれまでの怠慢の責任を取りなさい! というのは冗談だが、ものごとには必ず、「現状そうなっていない理由」というものがあるわけで、何かというとすぐそこを置き去りにしてキレイゴトばかり並べる「役人話法」と根本的に相性が悪い私は、こういう政府刊行物は必要以上に注意深く読むことにしているのである。

事例集を読んでみても、これらはまさにPTAが目指してきた「社会教育」「教育環境の充実」「学校との連携」なのではないかと感じさせられる。しかし、
「子どもの学びや体験活動を充実させ」「自己肯定感や思いやる心を育て」「防犯・防災対策をし」「地域と連携して子育てに当たる」ことを目標としてきたPTAが「強制参加」「不参加批判」の泥沼にはまり、必要以上に攻撃的なレジスタンスを生むことになった(お前が言うなって…)現状を見るにつけ、文科省は同様なことを「コミュニティ・スクール」として制度化することで、もっとハッピーに自主的に強制なくできるようになると考えているのだろうか? という点が不思議である。
単にパンフで語られているように「連携しよう、それが子どもの環境を良くする」ならいいのだが、実際の事例集を見ると案の定、「学校業務がオーバーフローしてしまうから私達で責任もたなくちゃ」という、従来の強制PTAとなんら変わらない文脈でコミュニティスクールが語られているようすが散見されるのだ。

福岡県春日市のコミュニティスクール紹介文の中に「以前から積極的に保護者・地域住民を人材として活用していた○○小学校」という記述があるが、「人材として活用」といううつくしい書き方の裏側には「動員」があるんじゃないか? と疑り深い私は思うのである。
というより、動員なしに「人材として活用」が成り立っていたんなら、横文字の制度化などする前に、PTAが本来の意味で十分機能するはず、していたはずではないか?と思うのだ。

これまでPTA問題事例集、みたいなのをたくさん見聞きしてきたが、最初の出発点は「学校に保護者も地域も関わることで、より良い教育を」目指したものの、ボランティア精神とはほど遠い現場の運用で、有無を言わさぬ動員とか、参加できない人を非協力的と批判するとか、意見が合わず離れた人の子どもを排除するとか、そしてそれを「協力しないんだから当然」と正当化する(理解のない保護者のみならまだ笑えるが教員や学校管理職までも!)とか、さまざまな目も当てられない惨状に至っている事例が本当にたくさんある。

コミュニティスクールもすごくいい取り組みだとは思う。それと同じように、私はそもそもPTAという発想そのものを否定したことはないし、いい取り組みには違いない。
しかし、結局は「任意」のもので学校制度の貧困を補完しようとするとき、それが「任意」にて取り組まれない学校があった場合  たとえて言えば、月1,500円で協議員なんか引き受けていられない保護者ばかりになったとき  質の良い教育をたちまち提供できなくなってしまう学校教育というものは、なんなんだろうか?と考えざるを得ないのである。
結局それは、「スクール」の体質改善ではないのでは? 任意の取り組みに責任を分散してしまおうとする目論見  なにかこうPTAが思うように発展しなかったため別の切り口から制度化して本質的には同じことをやろうとしているくさい  に感じてしまう。

再三になるが、否定しているわけではない。しかし、コミュニティスクールが本当に素晴らしいのはそれが動員にはじまる「PTA類似問題」をクリアできたときだと思う。そして、「学校のオーバーフローを地域や保護者でまかなう」という発想から自由にならないかぎり、PTAもコミュニティスクールもこの同調社会の日本においては、いずれ同じ色と材質の壁にぶつからざるを得ないのではないかと思う。

念のため貼っておくが、根拠法はいたってシンプルなのだ。


地方教育行政の組織及び運営に関する法律
第三節 学校運営協議会

第四十七条の五  教育委員会は、教育委員会規則で定めるところにより、その所管に属する学校のうちその指定する学校(以下この条において「指定学校」という。)の運営に関して協議する機関として、当該指定学校ごとに、学校運営協議会を置くことができる。
2  学校運営協議会の委員は、当該指定学校の所在する地域の住民、当該指定学校に在籍する生徒、児童又は幼児の保護者その他教育委員会が必要と認める者について、教育委員会が任命する。
3  指定学校の校長は、当該指定学校の運営に関して、教育課程の編成その他教育委員会規則で定める事項について基本的な方針を作成し、当該指定学校の学校運営協議会の承認を得なければならない。
4  学校運営協議会は、当該指定学校の運営に関する事項(次項に規定する事項を除く。)について、教育委員会又は校長に対して、意見を述べることができる。
5  学校運営協議会は、当該指定学校の職員の採用その他の任用に関する事項について、当該職員の任命権者に対して意見を述べることができる。この場合において、当該職員が県費負担教職員(第五十五条第一項、第五十八条第一項又は第六十一条第一項の規定により市町村委員会がその任用に関する事務を行う職員を除く。)であるときは、市町村委員会を経由するものとする。
6  指定学校の職員の任命権者は、当該職員の任用に当たつては、前項の規定により述べられた意見を尊重するものとする。
7  教育委員会は、学校運営協議会の運営が著しく適正を欠くことにより、当該指定学校の運営に現に著しい支障が生じ、又は生ずるおそれがあると認められる場合においては、その指定を取り消さなければならない。
8  指定学校の指定及び指定の取消しの手続、指定の期間、学校運営協議会の委員の任免の手続及び任期、学校運営協議会の議事の手続その他学校運営協議会の運営に関し必要な事項については、教育委員会規則で定める。



根拠法を踏まえて思考すれば、「学校のオーバーフローを地域や保護者でまかなうのがコミュニティスクールだ」という発想が完全に逸脱気味、逸脱と言って悪ければ拡大解釈であることがわかる。

最初に引用したニュースを、国民の皆様はどういうふうに読んだのだろうか。
努力義務…「チーム学校」がいじめや不登校に対応する…地域連携担当教職員…学校を核とした地域作り…
いいことなんだよなぁ。絶対に、いいことにちがいない。
なんかかすかに背筋が寒くなるような気がするのは、私がひねくれているからなのだろう。

秋の学芸会鑑賞〜でしたが。

学芸会を楽しんできたところなのだが、なんだかチョットわりきれない気持ちも残してきた。
うちの子どもやその友達が仮装に扮して劇をやる、というのは純粋に面白いのであるが、演目のチョイスがどうも…通常とは別の意味で、考えさせられる劇だったのである。

次郎の劇のストーリーは、京都の寺が火事になり、それを消し止めるために雷神の子が雨を降らせようとするが、それまでに他のニーズで雨を使ってしまっていたため足りず、全国の雷神の子たちを呼び集めてみんなの力で雨を降らせようというもの。ここだけ聞いたら美談のようでもあるが、
「みやこの宝は日本の宝だ、みんなもそう思うだろ!」
「どうしても火を消さなきゃならないだろ!」
みたいな「強く同調を求める場面」があり、違和感を感じた。
それに対して地方の雷神の子たちは、「田んぼにだって雨は必要だし」とか「こっちはこっちで雨を待ってる動物たちがいる」「俺はそんなの嫌だ、関係ねぇ」などと口々に言うのであるが、それらの子たちの様子はどちらかというと「自分勝手な態度」として演技指導をされていた。最後はみんなで同じダンスを踊りながら、「みやこの火消しが日本全体にとっての最重要課題である」ことに一人残らず同調し、全員で寺の火事を消し止める…という大団円である。

国宝級の建造物が燃えるのは確かに大問題ではあるが、それ以外の地方の干ばつや断水がどうでもいい、という結論で全員一致するというのも、気味の悪いものではないだろうか。子どもたちになんら罪はないし、上演自体ははかわいい素晴らしいものであったのだが、そういう台本に対してちょっと「?」な気持ちを抱いた。
ネット検索してみたら、日本演劇教育連盟というところが編んでいる小学校向けの脚本集にあるもののようである。初版は1985年。30年を経た今、こういう教育は古くなりつつあるのではないだろうか、古くなったほうがいいだろう、と小さく思った。

いっぽう月子のほうであるが、こちらは有名作家の小説をつかったミュージカル風で、東京からきた転校生が地元の子からいじめられている折り、異界の者(飢饉時の間引かれ子の亡霊である座敷ワラシ)が援助したり激励したりして、転校生が勇気を出し、いじめっ子たちと和解していくというストーリー。高学年だけに高い演技力を見せる子も何人かいて楽しめたが、やはりこれも冷静に考えると、もやしっ子と言われた転校生が体力を増強して喧嘩に勝って感心させたり、バカにされていた都会言葉を捨てて地元の言葉を使うようになったことで集団と同化するプロセスをたどり「なかよくなってよかったね」という話以外の何ものでもない。
いじめっ子たちの「言葉が違ったり体力が弱いからといじめていた行動」についての内省をうながすものにほとんどなっておらず、「いじめられたくなかったらみんなと馴染めるようにがんばろうね」「無理だと思っても(そういう方向で)やればできる」というメッセージ性を強く感じる脚本となっていた。

私の捉え方が斜め過ぎるのかもしれない。しかし何年か前、上の子どもがやっていた「いじめられっ子」劇ではもっと、「異なる特質を持つ子どもでもそれぞれの役割がある」的な演劇表現が出来ており、その台本を選んだ先生に感心したものだったが…。

学芸会を観たぐらいで東京都の教育のことまで考えるのは大げさ過ぎるかもしれないが、都教委の方針がなんだか変な方向になっているのでは?という薄ら寒い危惧が、とくに大震災以降の「絆熱」みたいなものを肌で感じつつ、「なんだかやーだなー」という気持ちを湧き起こさせてくるのであった。

*** おまけ ***

学芸会一つでそんなハスな見方になってしまうのも、朝のテレビで見かけた原辰徳が下地になっていたのかもしれない。彼は歯磨きの仕方についてインタビューを受け、「電動。ここ20年くらい電動。でも手も動かす。電動だからといってそいつに任せっぱなしにしているのは無責任なヤツのやること。おれはそんなの歯ブラシに申し訳ないから、共同作業で、手も動かすんだ。」と言っていて(もちろん冗談なのであるが)、さすが原。これ以上、原らしいコメントはないよなあ。さすが日本人精神のモデル、ジャイアンツ。などと思ったりしたのが、布石になったのかもしれんです。はい。

話しかけられたら返事しましょう

こんなニュースがあって呆れてしまった。

修学旅行生、被爆者に「死に損ない」 横浜の中学校謝罪

将来リンク切れしたら何が何だか判らなくなるので、本文をかいつまんで紹介しておくと、

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修学旅行で5月に長崎市を訪れていた横浜市の公立中学校3年の男子生徒5人が、被爆遺構を案内していた被爆者で語り部のMさん(77)に「死に損ない」などと暴言を吐いたり、やじを飛ばしたりしていたことが分かった。Mさんは学校に抗議し、校長が電話で謝罪した。

 Mさんは原爆投下後に長崎市中心部に入り、入市被爆をした。小学校の教諭を退職後、1998年から被爆遺構の案内や講話をしている。現在は「長崎の証言の会」の事務局長を務め、案内や講話の回数は年100近いという。

 Mさんは10人ほどを爆心地から600メートルほどの山里小学校へ案内。原爆で多くの児童が亡くなった話を始めようとした際、この班とは別行動をしていたはずの男子生徒5人が近づいてきて、うち数人が「死に損ないのくそじじい」と大声を上げた。Mさんは話を聞くよう注意したが、5人は周りの生徒に向けて「笑え」「手をたたけ」などとはやし立てた。男性教諭も注意したが暴言は続き、山里小では案内ができなかったという。

 Mさんは翌日、「たいへん悲しいことでした。多くの被爆者の方に申し訳なく、つらい時間でした」と記した手紙を校長に郵送。返信がなかったため、今月3日に学校へ電話すると、校長から「すみませんでした」と謝罪されたという。

 校長は取材に対し、Mさんらと最初に対面した際、男子生徒の一人の態度が悪く、Mさんから「出て行け」としかられた経緯があったと説明。暴言について「逆恨みをして言ったのだろうが、許される言葉ではなく反省を促したい。十分な指導ができず申し訳ない」と話した。今後、生徒の感想文とともに校長の謝罪文をMさんに送るという。

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中3男子がバカなのは言うまでもない。私なんぞは「先生なんでたたかないの?」くらい思う。もちろん体罰は良くないが、これはたたくでしょ?としか思えない。
部活の試合でうまくプレーできなかったとか、そんなしょうもないことでは殴って、こんな人としてやっちゃいけないことをしてるのに、その場で激怒してたたかないって何なんだろうなー。生徒に愛着ないのかなー。などと思ってしまう。
ま、実際たたいちゃったら処分が待ってるんでしょうけれどね。
私だったら、「親が子をたたいたら懲役○年」って法律があったとしても、これはたたくわ。「子供の指導に体罰は必要ない」というのが私の持論だけど、それでもこれは頭に来てたたく(なんじゃそりゃ)。そして親子でとっくみあいの殴り合いに発展…?^_^;
でもよその子だったらたたかない。さすがにそこまでの愛着はないから。
つまり、先生にとって生徒がみんな「よその子」になっちゃってるのが現代なのかもしれませんね。

見方を変えればまあ、原爆の悲惨さを本当に知ってたらこのバカ男子みたいな事はできるわけがないので、悲惨さをしっかり伝える事ができていない、すなわち教育の失敗ではあるんだろうけどね。そういう意味ではバカ男子も気の毒といえなくもない。

そこはそのぐらいでおいといて…。
私がこの記事にもっともあきれて、自分のブログでわざわざ紹介しようと思ったのは、Mさんが手紙を書いてんのに校長から返信がないっていうくだり。
バカ男子の10倍くらい、この校長のほうがゆるせん。
あんた、社会人で、学校の責任者で、生徒の教育がミッションで、それでたっぷり金もらってるんでしょ!?
自分とこの生徒がとんでもないことやってんのに、しかも被害者から手紙来てんのに、なんでシカト? 仕事しろよ!
それで業を煮やした被害者が翌月に電話してきて初めて「すみませんでした」と謝罪??
そんなん、謝罪でも何でもないわアホウ!!長崎から横浜に長距離電話かけさせて、受け取った電話で「あ、そういえばすみませんでした」って、そんな校長だからバカ男子になめられるんじゃ!

ほかにも今日は、あろうことか小学校長が小学校の女子トイレを盗撮とか、もうどうしようもないニュースばかり。
大田区には「学校応援団」を名乗るPTAもあるらしいが、素人に応援されるかされないかで業務の内容やレベルが変わってしまう学校って、どんな学校なんだ。
長年、公立学校と付き合ってきて、心底思う。
学校よ、プロの自覚を持って仕事をしてください!
そしてその前に、社会常識を身につけようZE!!

電話連絡網問題 再燃

電話連絡網に疑問を感じてからはや10年。ブログ上で電話連絡網を批判してから2年が経つ。
小学校の電話連絡網は相変わらず保護者に無断で毎年作成されているが、事実上ほとんど回ってこなくなった。
メールシステムを使うようになったからである。
遠足の帰着予定や不審者情報など、メールで流れてくるので大変助かる。
連絡網を勝手に作られるのは「ハァ?」とは思うが、回ってこないのであれば実害はないから放置している。

しかし、中学校のほうはなんだかおかしなことになっている。
昨年度初めに、「電話連絡網に掲載しても良いか」というアンケートがとられた。
このこと自体は、小学校よりもかなり良心的だといえる。
私はノーに○をつけ、従来よりの私の考え方(至急で重要な連絡事項は学校が責任を持つべき、現代に至ってまで連絡網を手段とするのは誤っている、事実、連絡網はきちんと機能していない)を書き添えた。
当時の担任の先生との「連絡網案」の往復があったあと、連絡網は我が家(だけなのかは知らないが、とにかく希望しなかった家庭)を除いて作成され、余白に
「希望により連絡網に入っていない家庭もあります」
の1行が追加された。
特にこれで不満もないし何の問題も起きなかった。

今年度になり、担任とクラス編成が変わった。
人を「知的なタイプ」と「そうでないタイプ」に分けるのも失礼な話なのでやらないが、ひそかに心の中だけでは「そうでない」に分けてしまいたくなるような担任だ。分けてんじゃん。
いやいや、そうでないタイプには往々にして別の良い面があるし、私自身もかなりそうでないので、別に馬鹿にしているわけではない。
ま、タイプはさておき、新担任より電話が来た。
担「ぶきゃこさんは昨年連絡網掲載を希望されていないようなんですけれど、今年はできれば載せさせていただきたいのですがいかがですか?」と言う。
私「昨年申し上げている通り、私は連絡網による連絡は希望していないのですけれど」
担「でも、連絡が回らないですが」
私「私は連絡網というシステムがおかしいと思っているので。うちは私の不在時に小学生の子供にまくしたてて切られて内容わかんなかったりとか、夕飯時忙しい時を狙って学年ごとにしょうもない同じ内容の伝言ゲームさせられたりとか、子供が出かけたあとで連絡網まわってきたりとか、もう嫌な目にさんざんあってるんです。至急で重要な連絡があるなら保護者に丸投げせず、学校側で責任を持って通知の努力をお願いします。市の防災メールシステムで、学校と学年別のメール配信システムがあってそれに登録してくださいってプリントも来てますよね?どうしても至急連絡したいことがあるならそれを使えばいいじゃないですか。連絡網なんてまともに回ってきませんよ。ちゃんと回るかどうかもわからない、内容も変わってしまうような方法にどうしていつまでもこだわるんですか?」
担「メールシステムは、そのう、いろいろあって、学校の連絡には使えないことになったんです。連絡網がどうしても駄目というなら、私から個別に連絡させていただきますけれども、私も忙しくて必ず連絡できるとは限りませんので…」
私「先生が連絡できると保証できないものを、なんで保護者全員に連絡させるんですか? 保護者だってそれどころじゃない人、何人もいますよね?」
担「それでも、連絡網に入っておくほうが、連絡入る可能性がまだあるじゃないですか」
私「え?でも連絡網に入ってたら連絡網任せにして先生は連絡しないでしょ?それが困るって言ってるのに。連絡網に入ってても先生が連絡くれるんなら連絡網に載せてもいいですよ。私はあとの家庭にかけられるとは限りませんけどそれでもよければ」
担「連絡網に入ってたら…私は連絡しませんね」
私「でしょ?それじゃあ“連絡網に入ってたほうが連絡が受け取れる可能性が高くなる”って意味がちょっとわからないです。先生は最初から連絡しないつもりなんですか?」
担「い、いえ…。でも連絡網に入っておけば連絡は入るのに、って思うんですよね」
私「学校側の必要で連絡をするなら学校で連絡責任を持ってください」
担「でも、お子さんが不審に思われませんか? なんで太郎君の家だけ番号がないんだろうって…」
私「別に困らないでしょ」
担「でも、遊びに誘うのに、1人だけ電話番号がわからないから仲間はずれにされたりとかしないかって、心配です」
私「えっ? 連絡網ってそういう用途のものなんですか? むしろそういう使い方しちゃいけないって思ってましたけど。連絡網以外の用途に使っちゃいけないって注意書きありませんか? まあ実際そういう用途に使ったりしている現実は否定しませんけど、友達と遊びたいなら本来は、個人個人で連絡先取得するべきじゃないですか? それを前提に“連絡網がないと”というのはおかしいと思いますけど」
担「それは、そうですけど、そうなっちゃうこともありますよね、って話です」
私「そういう用途前提でおっしゃるのであれば、別に載せてもいいですよ。電話番号の開示はうちはまったくかまわないです。連絡網にしなきゃいいですよね。うちだけ先生から直接、棒を引っ張ればいいじゃないですか」
担「あの、連絡網って、私から出してるわけじゃないんですよ。学校からの発信なんで、私からは線ひっぱれないです」
私「(もー、意味わかんないなー怒。)だから、学校なら学校でもいいから、発信元からひっぱればいいですよね!?直接連絡もらいたいって言ってるんだから。」
担「それはちょっと…連絡網として変です。だからあの、連絡回せないと仰るなら最後にしますんで、連絡網に入れさせていただいてはダメですか?そうすれば連絡入ると思うのに…」
私「連絡網はお断りするって何度も言ってますよね!?理由も言ってます!」
担「それじゃあ、昨年と同じ形でやっぱり掲載しないということでいいですか?」
私「いいですよもう何でも」←疲れてる
担「私が必ず連絡できるとは限りませんけどいいですか?」
私「え? 緊急連絡があるなら連絡はいただかないと困ります」
担「であれば、やっぱり連絡網に…」

バ ○ なの?????
会社から帰ってきたばかりの、カバンも置くか置かないかのところを電話で捕まったイライラもあり、もう脳の血管切れる寸前ですわ私。

そして極め付きはこれ。
担「で、太郎君なしで連絡網を作ったとして、その連絡網、要りますか?」
私「うちはどっちでもいいですけど。逆に他の皆さんはかまわないわけですか?」
担「それは…うーん…でも、クラスの皆に配るものを、太郎君だけ配らないということになると、ちょっとあのどうなのかなと心配で…」
私「連絡網は、連絡網希望の家庭だけ配りますときちんと説明して配ればいいじゃないですか」
担「それでも、1人だけというのはちょっと…それに太郎君がお友達の家に連絡したいときに…」
私「じゃ、配ればいいんじゃないですか? 昨年はうちにも普通に配られましたよ。それでいいのでは?」
担「それじゃあ、昨年と一緒でいいですね? 太郎君家の電話番号が入っていない連絡網で、全員配布で、ぶきゃこさんには私から個別に連絡するということで(←ここだけ、何故かヒス気味に)よろしいですねっ!?」
…そして長電話はやっと切れた。
去年と同じなのになんでこんなにもめるの?ワカラナイ…。

しっかし不愉快だわ。
連絡網に載せてもいいですか?と聞いてきておいて、ノーと言うと、子供がハブられるぞとか脅す。なんなんだ!?
しかも連絡網の連絡はあくまで学校発信だから、それをあえて私(担任)が連絡してあげるんですよとかみたいに恩着せがましく言ってたな。
学校からの緊急連絡を、担任がさもワタシには関係ないことのように言うってどうなのよ???

この現代において、三十数家庭に至急連絡したいとき、一般の皆さんは何を用いるでしょうか?
電話連絡網っていう発想のところ、学校以外にありますかね?

三十数個の宛先にメールを送信する。
こんな「基本業務」学校は何故やらないのでしょう?
どっこの団体でも、ごく普通にこなしてる事。
なんっっにも、面倒なことでも何でもない。
どうしても重要事項で着信確認の返信をもらってごていねいにチェックしたとしても、三十数個ですよ? ハッキリ言って、テストの採点の数十分の一の労力です。
副担任も居るんだから、半分こすりゃあ、「へ」みたいな業務よ。
そもそもメール発信しなきゃならないような緊急連絡なんて、年に何回もないでしょうに。
何をそんなに昭和のやり方にこだわってあくまで保護者にやらせたいのか、さっぱりわからない。

メールを使えない人もいるかもしれませんが、現代では本当に「少数派」になってます。
「少数派」だけ連絡網にすれば問題なし。
むしろ、いつでも受電出来て、用件を聞いてメモを取って、次の人にかけられる状態の人のほうが、現代では「少数派」じゃありませんかぁ?
エプロンつけた専業主婦が、「はいはい今〜」と言いながら黒電話にかけつける時代じゃないんだよ今は!!なんでわからないんだろう。

もしかして、担任がにおわせたように、「クラス全員の家庭の連絡先を共有する」っていうのが実は隠れた目的なのかなあ…。
だったらそう言えばいいのに。そう言ったら言ったで「そんな必要あるのか」とか面倒くさくなるから、連絡網という形をあくまでとりたいんですかねぇ。ハァ。

そしてこれは本題からちょっとはずれますが…
今どき、「だれだれ君に連絡とりたいなぁ」って連絡網で確認する中学生も少ないし、「あいつの家は連絡網に載ってない」って仲間ハズレにしたりとか、あるんですかね?
良い悪いはさておき、もう家の電話で連絡とり合う中学生自体少なくなっているような気がするのですよねぇ。

紙好き派の小さな不満

保護者を欺いてウヤムヤにPTA会員にして金を巻き上げ仕事を押し付けなければならないほど、日本の教育界は現状ビンボーなのかといえば、確かにそうかもしれないなーと思うことがあった。
と、いうのも、「わら半紙」をいまだにやめないからである。

私は本も大好きだし、何か書きつけるのも大好きだし、きれいなメモ用紙がたっぷりあると意味もなく豊かな気分になる「紙好き」であるが、わら半紙だけはどうもいただけない。
子どもの頃、宿題プリントを見ると憂鬱な気分になったものだ。勉強するのは別にかまわないが、書き心地が悪い。きれいにとがらせた鉛筆で美しく書きたいのに、ざらざらしているので筆先がすぐにつぶれ、書くと鉛筆の粉ががっつりしみこんで、消しゴムを使っても消えにくい。かといって力を入れて消すと破れてしまう。書きやすく消しやすくするためには、2Bなどのやわらかめの鉛筆を使うといいのだが、つぶれやすさはひどくなる上に、書き進むうちに手のグーのほっぺたが黒くなってしまいどんどんプリントが汚れるのだ。
わかります? 手のグーのほっぺた。
わかんないか…。
水付けて、窓ガラスにぺたっと押して、指でちょんちょんと足指書いて、「ほら、足あとが出来たよ!」とかさんざんやってた、あそこですよ!
ってますますわかんないか。。。

高学年になるとシャーペンを使うようになったので、破れやすさはさらにひどくなった。勉強は毎日毎日膨大な時間をついやすのに、なんだってこんなイライラさせられるもんで勉強しなきゃいけないのかと嫌でたまらなかった。
たまに、親の机から勝手にコピー用紙をもってきて落書きをすると、その書き心地の良さ、消しやすさにほれぼれしたものだ。
また、低質な紙で雑に印刷されたテストに回答を書くのも、自分が一生懸命考え、書いた答えが、ぜんぜん大切にされていないようでいやだった。
100点取ったところで、大人は別にどうだっていいんだろ?何時間かけてやっても、すぐゴミだろ?という気がした。

いまは自分がやる番ではなく、子供の宿題を見る番になったが、やはりわら半紙である。
さすがに昔よりは質が良くなったのか、ちょっと消しゴムかけたぐらいですぐ破れるということもないようだが、消えにくいことに変わりはないし、あの茶色い紙はやはり勉強が雑になり、頭の中にもわらのカスが混ざってくるような気がして嫌なものだ。
たまに業者作成のプリントなどで上質紙のときは、「さあ、きれいに答えを埋めていこう」という気になり、子供の取り組み方も違うような気がするのは私のひいき目か。えんぴつもとがったままなめらかに書け、きれいに消える。

あの紙を使うことでどれだけのコストダウンになっているのだろう? と気になり、オフィス用品大手の「アスクル」で値段をしらべてみた。
【わら半紙】日本製紙 国更 A4 3000枚 ¥2,309
【コピー用紙】マルチペーパー スーパーホワイト A4 5000枚 ¥2,631

。。。。。。。。。。。。。。。。高いじゃんわら半紙!!

なんなんだろう一体。子供が「こういうもんだ」と信じて何も言わないのをいいことに、まさかわら半紙業者との癒着!?
それとか公共団体は国産ワラとか再生紙を使うミッションがあるのか??
それっと、税金の節約よりも優先されなきゃいけないミッションか?
う〜ん、それにしても子供の勉強に使うことないじゃん、と思う私…。
なんでこんなことになってるのでしょうねえ…。

教師の資格

教師としての適格性、とはなんだろう? と考えてみる。

・それぞれの教育課程を教えるに足る能力。

これはまあ、当たり前であろう。料理のへたなお姉ちゃんにシェフはつとまらない。ペーパードライバーにタクシー運転手は無理。それと同じで、漢字は誤字だらけ、九九も怪しいとなれば教壇に立つんじゃねえという話にはなる。それはもう当たり前の前提であってここがあぶない教師にはさすがになかなかお目にかかることはないのだが、ただそれを年少の者たちに的確に理解させる能力となると、これはかなり粒に大小があるといっていい。

以上が「教」の適格性。次に、「育」の適格性、これがまた非常にバラつく。

「育てる」という仕事には、パッションがないと難しい。
「子どもが好き」な人というのは世の中にたしかに一定数いて、そういう集団の中から教師という職業を選択する人が生まれてくるのだろうと私はなんとなく信じていたりもするのだが、ただ「好き」なだけでは何十人も指導するなど厳しすぎる話だ。そこには、うまく表現できないけれども、「なんとしてでも言うことを聞かせるという気合い」? みたいな、「リーダー性」みたいなものが適性として必要なんじゃないかなあと思ったりもするのである。
もちろん、(特に昔なんかは)変なほうに熱心にリードするような教師も存在していて、それはそれで問題があったわけなんだけれども、どうも最近はこの「リーダー熱」みたいなものが変な雑音によって冷まされてしまい教師の教育力を下げているのではないかと感じるときがある。

雑音というのは、例えば「体罰禁止」だったり、「地域の皆様との関わり」だったり、「個人情報保護」だったり、「どんな子にも教育を受ける権利がある」だったり、「モンペア対策」だったり、「教員免許更新制」だったり、「いじめは学校の責任」だったり「全人教育」だったり…

「子どもはしっかりと言うことを聞かせれば良い」「子どもは躾けるもの・勉強させるもの」とわりとシンプルな価値観が世の中の主流だった昭和のころにくらべると、教師を去勢する雑音が増えたのは間違いないのではないかと思う。
(注)体罰がいいとか悪いとか、いじめは学校の責任かどうかとか、私はいまそういう話をしたいわけではないです。

うちの子どもの学校に、むかし新任で来た先生がいて、まぁ笑えるエピソードも呆れるエピソードもいろいろとある方なんだけれども、その先生が、がやがやと静まらないクラスに業を煮やし「静かにシローッ!」と教卓をグーで殴りつけ骨折した事件というのがありましてね。まー冷静に考えたらアホちゃうかという話ではあるわけだけれども、こういう教師には結局子どもというのはしっかりついていくわけです。「教」の部分の能力いかんにかかわらずですね。
そういうことができてはじめて(いや骨折する必要はまったくないですが…)、子どもに向かい合って指導をするという資格を手に出来るのではないか。
私は、いろんな先生を見てきて、そのように思うわけであります。

***なくてもいいんだけどの蛇足コーナー***

教育の変質は、子どものほうの変質もあると思う。
先日、うちからあまり離れていない川崎市という場所で、宿題を忘れた6年生に教師が注意したところ校舎の窓から飛び降りたという事件があった。
そうなっちゃうと「コラーッ!」も簡単には言いづらくなる、という状況もあるのかもしれずちょっと気の毒ではある。

なんで給食着が腹立つかというと

無駄に長生きしてる割にはどうも人間的な成長がいまいちらしく、未だに、くだらないウソをつかれるとイラッとする。
なぜに、ウソをつかれるとイラッとするのか。
それは、本当じゃないことを言われると、それは本当じゃないからイヤ。
とかそういうプリミチブな話ではない。
「こう言えばあいつは信じるに違いない」と思って言動に移すという行為が、すなわち、こちらを馬鹿にした話だからである。
ウソだから腹が立つのではない。
馬鹿にしているから、腹が立つのである。

だから、ものすごい大ウソで「1本取られたー。まんまと騙された!」みたいなウソより、「そんなくだらねぇウソついてどこが面白いんだ?」みたいなウソを真面目な顔して並べてるヤツの方がよりイライラする。舐めてんの?と思う。

そして、給食着の話だ。
三多摩小学校の給食着(給食当番の子が着る衛生着)は、割烹着と帽子とマスク、そしてそれを入れる袋のセットである。
当番だった子は週末に持ち帰ってマスク以外は洗濯し、次の当番に渡す。
これは別にいい。
しかし、「帽子も含めて、必ずアイロンをかけること」と学校は言うのである。

給食着はポリエステル65:綿35のいわゆる「ブロード」であり、洗いっぱなしでも大したしわにはならない。
そして私は個人的に、ブロードにアイロンをあてたときの、工場の排煙のようなケミカルな臭いが好きではない。
まあそれでもいいよ。どうしてもアイロンかけろって言うなら。
そう思って通算9年以上、アイロンをかけ続けてきた。

そんなに長年やってるならもうどうでもいいじゃんか、と思われるかも知れないが、やはり今でも学校からの「アイロンかけろ」プリントに「消毒のためです。帽子にもきちんとかけてください」などと書いてあると、いちいちイライラッとするのであった。

アイロンはいいよ。折り目ついてたほうが気持ちいいし清潔そうだもんね、かけろっつうならかけるよかけますよ。
でも、「消毒のため」ってなんなのよ?
汗くせぇお子様たちが校庭で遊んだりホコリだらけの教室でころげまわったあと、ろくに手も洗ったか洗わないかわかんないような状態で洟すすりながら着てる給食着を、なんで「消毒」しなきゃいかんのよ。
教室は食品メーカー工場か?
じゃあ聞くけど、エアシャワーはどこにあんの? クレゾールはどこですか? 
肝心の手にはビニール手袋はしないの?
ったくフザけるのもたいがいにしなさいな。
「なにか、もっともらしくて根拠のありそうなことを言えば、母親たちはおとなしく従うに違いない」と思ってるっぽいその小ウソが、イラッとくるんだよ!

ほんとに「消毒」にこだわるほど、衛生に気をつけてるんだったら、洗いっぱなしでもいいから給食着は毎日とりかえなきゃまずダメだろう?
週末、5着持って帰らせなさいよ。ほんとに衛生第一に考えてるんだったら。
そして洗濯後、全部ジップロックで密封させて、使う日まで触らせちゃ駄目でしょう。
そこまでやるなら「なるほど衛生に気をつけてるんだな」と納得して差し上げやしょう。
前の日の汁が飛んだりごはん粒ついた給食着で配膳させて、「お母さんがちゃんとアイロンで消毒してくれてるから清潔だよ〜」って、ナメとんのかぁぁー!

などといちいち腹立てながら(ま、正直めんどくさいという気持ちも少なからずありますが…)セイセイとアイロンがけにいそしむ週末なのであった。

たのしかったね?運動会

最近ではなぜか運動会は秋ではなくGWと夏休みの間に行われるのが主流になっているようだ。
三多摩小学校・中学校も、この時期に続けざまに行われ、なかなかに楽しいながらも忙しい週末続きであった。

小学校は、お決まりの徒競走のほかは、ちょっとひねったレクリエーション系の競技やかわいい演技などで、バラエティに富んでいるが、中学校のほうは、100m走・60m走・1000m走・二人三脚・全員リレー・部活対抗リレー・選抜リレーと、とにかく走ってばっかである。
鈍足王かつマスゲーム系も大嫌いだった子どもの頃の私にとって、運動会は何が楽しいのかさっぱりわからないイベントだったが、うちの子たちはあまり嫌がることもなくそこそこ楽しんでる様子なのは助かっている。

だが中学校の全員リレーで、ふと見ると泣いている女の子がいた。
めがねをはずして泣きながら、とぼとぼと歩いてゆっくりとトラックをまわっている。
まわりにはどんどん追い抜かれ、次の走者はバトンタッチラインでじりじりしながら待っている。
観客は、何が起きたのかよくわからないままに、ガンバレガンバレもう少しだよと声をかけている。
あと3メートルぐらいでラインに到着するというのに、ついに女の子は棒立ちになってしまった。
しゃくりあげはいっそう大きくなり、先生が走って励ましに行く。
観客の声援もいっそう大きくなる。
そのあいだに、さっき追い抜かれたクラスの選手が1周してまた迫ってくる。
女の子は、どうにかこうにか踏み出し、数歩あるいてやっとバトンを渡した。
ふらふらとフィールドに戻っても泣きやむことはなく、丸くうずくまってカメラマンのおじさんに慰められていた。

女の子がどういう経緯でそうなってしまったのかはわからない。
私が見た時には泣いていたので、もしかしてその直前にころんでショックで泣いてしまったのかもしれないが、特にひざや体操着がひどく汚れているということもなかった。
だから、何か精神的な・感情的な理由で泣いていたように見えた。
走ること自体が大嫌いだったのかも知れないし、観客の前で体操着で走るというのが苦痛だったのかも知れないし、全員リレーという状況がプレッシャーでたまらなかったのかもしれない。

あの女の子がそうだと断言するわけではないが、そういう感情のコントロールにちょっと困難さを抱えている子というのは、私の経験上で言うと2〜3%くらいはいる。
クラスに1人は、いるというような体感数字である。

もしどうしてもリレーをすることが苦しくてたまらない子がいる時、公教育が、そういう子の居場所を用意できないとしたら。体育祭に無理矢理出させて、泣かせることしかできないとしたら。これは非常に問題ではなかろうかと、私は思うのだ。
体育祭は、授業の一環ではあろうが、人生をトータルで見た時、それは単なる体育のお祭りという位置づけでしかない。やらないと命にかかわるわけでもないし、何かの価値を決めるわけでもない。現に、いま現在私と交流のある職場の人、ママ友達、近所の人、その他友人知人、だれひとりとして私の鈍足で迷惑をかけている人はいないし、そもそも自虐ギャグで言わない限りはだーれも知ることにもならない。知ったところで、どうでもいいはずだ。
体育祭に1人や2人出なかろうが、どうしても嫌な子がリレーを抜けて点数集計係になろうが、お祭りとしてなんの差し支えもないことは間違いない。

中学生が自殺をすると学校は「そんな予兆はなかった、まったく気づかなかった」と必ず言うが、自殺というのは極端な大事故であり、ほんとうは前兆となる小事故ならたくさん起きているはずなのである。小事故だからと無視し、圧力をかけて同一色にぬりこめるしか能のない教育であれば、大事故に至っても「気づきませんでした」としかいえないのは当然である。
少なくとも、死んでしまいたいくらいリレーが嫌な子、というのは絶対に実在する。そのような子が、「嫌です」と言う機会が与えられ、その代わりに体育祭でどんなふうに参加出来るかを考えることができ、それが可能であれば受け入れられる教育のあり方であって欲しいと私は思う。
もちろん、嫌なことから逃げさせるだけが教育ではない。乗り越えられると信じたら、励まし、勇気づけ、取り組ませるのも教育だ。
しかし、大勢の観客の前で大泣きになってしまい、リレーなのに立ち止まってしまうということは、本人だってショックにちがいない。いくら観客に大声援をもらっても、それが本人に充実感を与え成長の糧にしていけているとは、とうてい思えず、彼女はなにか大きく傷ついているようにしか見えなかった。自分が「リレーなんて大嫌い」組だからかもしれないが、胸が痛んだ。
叱咤激励し本人のためにやらせているつもりでも、死に追い込んでしまうことだってある。中学生以上ともなれば、本人に主張できる機会を与え、それに耳を傾けて行くことはとても大切なことだと思う。思春期の子どもが、「社会というものは、思っていることをそのまま主張など、とうていできない場所なのだ」と考えるようになるとしたら、それは教育の失敗だと、私は思っているのだ。

※本当に予兆をキャッチすることが難しい自殺というのもあると私は考えており、この記事は「学校は生徒の自殺を防げるはずだ」という主張ではありません。

「ところで最後に私どもからのお願いなんですが…」

たぶん5〜6年前からの話ではないかと思うのだが、4月の保護者会などで担任や校長から保護者に対して、タイトルのような前置きで釘を刺されるようになったことがある。
それは、「子供さんの前で教師の悪口を言わないで欲しい」という旨である。

曰く、あなたがたから見て私たち(教師)や学校の方針というものは、気に入らないこともあるかもしれない。私たちも完全な人間ではないので、欠点もある。しかし、それに対する不満や批判を子供の前で漏らすことは、子供と私たちの信頼関係を崩すことになる。教育に支障が出る。私たちは尊敬され、信頼される必要がある。よって、そのようなことを言うのはやめてもらいたい。

一見、もっともらしい話ではあるが、これほど他人や社会、子供をナメた話はないのではないかと思う。
子供の教育の最たる責任者は親である。信頼されなければ教育が成り立たないのは親も同じだ。しかし「子供に私の悪口を言わないでください」と近所や親戚に頼んで回る親がいるだろうか。そんな口止めして回っていることがわかれば子供に呆れられ笑われるのではないだろうか。ろくな教育できていない私が言うのもなんだが、教育など人間の裸の姿そのままでぶつかるしかないものだろう。
いろいろな考え方をする人がいるのが社会である。いかなる生き方をしたって批判されるときはされるのが人間だ。親と教師で視点も立場も違うのも当然。親に批判されたからとたちまち子供の信頼が揺らぐような教育であれば、それはそれまでの質だったというべきではないだろうか。
親の考え方を知り、教師の考え方を知る。学校や学校以外の社会について、成り立ちやそこに流れる思想や相互の関係を知っていく。自分の環境を知り、そこから自分の頭で判断し考える練習をしていく。それこそが子供が教育を受ける権利であるし、「学校と家庭の連携」というなら、そういう多様性の中で子どもが守られ、育てられていくことを保証すべきだろう。

私の目から見て、今の学校教育や体制にはいろんなウソやごまかしがぬりこめられている。ウソだから全部悪だというつもりもないが、ウソはウソだ。なんで私までその茶番劇の片棒をかつがなければならないのかさっぱりわからない。おかしいと思えばおかしいと言うだけの話である。何も、だからといって学校つぶれろとか、教師やめろとかいう話でもない。なぜ私たち親が、学校にとって都合のいい考え方に合わせ、態度を揃えなければならないのかわからない。

子供が学校に対する信頼を失って困るのは、学校よりもむしろ親である。こちらは一生の責任を負っていくのだ。だから、必要以上に教師をこきおろし悪口を吹き込む親などそうそういるものではないだろう。そんなことするのはただのバカである。そんなことすらわからず、みっともなく「悪口言わないでくださいね」と頼んでくる校長や教師にはウンザリだ。なぜか最近、学年はじめや入学時に必ずといっていいほどそういうバカなフレーズが聞かれるようになったのは、教委の指導なのであろうか? 本当に下らないことである。

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東京多摩地区。
会社員しながら4匹にエサやり中。
母親としてはもう相当数無理あり。
中2以来、ずっと重度の中二病。
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