2017-05

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全体主義者は隣組がお好き

NHKという国営放送局になにかはらをたてているわけではないし、インネンをつけたいわけでもない。死んだばあちゃんなんかは朝昼晩とNHKのとりこであった。昼下がりだけ、民放の昼メロドラマというのか、エロドラマというのか、ああいうのをたまに見ていることもあったが、まずほぼばあちゃんちの、薄青いセルロイドが画面にかけられたテレビはNHKを放送していたのであった。
セルロイドっつうのはなにかっていうと、あまり詳細に書くと「ぶきゃこさんの年齢ってもしやこんくらいまで行っちゃってるのでは?」とじゃすいをされてしまい読者と筆者の相互理解をたまさげるのであまり書けないのであるが、昭和の戦後からそんなに経ってない時代のしかもド田舎では、「テレビの画面からは放射能が出ている」というのが村人のあいだで常識だったのである。いや待て本当だ。本当ですって。
まあ電気がビビビってなってるわけだからそこから放射能といえば放射能が微量出ているのはあながち間違いではないのだろう。「放射線ではないんですか?」などと愚つっこみをしてはならない。放射線などと、やくにたつレントゲンみたいな生ぬるい表現はしなかったのである昭和のとある昔では。でもってそれから視聴者の目を守るためにセルロイドは掛けられていたのであった。

セルロイドの話はこれくらいにしてようするに言いたかったのは私はNHKに親しんで育っているのであり、これから言うことはけっしてNHKサゲが目的ではないということだ。

で本題に戻るがこないだの朝、NHKでこのニュースをやっていた。
あしたのまち・くらしづくり活動賞に千葉市美浜区の団体など

私の朝というのはだいたいひとり朝食とともにニュースやツイッターをみてちょいちょいつっこみを入れたりしてちょっとだけゆっくりした後は、もう毎朝死亡寸前と言ってもいいくらいいそがしいので、テレビでニュースをやろうがきょうのワンコをやろうがレコード大賞をやろうがろくすっぽ見ても聞いてもいないのであるが、この日だけはNHKのアナウンサーがしゃべる言葉に珍しくひっかかったので記憶に残り、あとで会社に向かいつつニュースサイトでどんな報道であったのか確認したのであった。私の耳が引っかかった箇所は、
「さまざまな問題を行政まかせにせず、自分たちで解決を図っている点が評価されました。」
という部分だ。

「行政まかせ」の類似ワードとして「学校まかせ」「保育園まかせ」などがあるが、ようは「本来の責任者は自分たちであるにもかかわらず、援助目的の行政サービスが存在することをいいことにすべての履行責任を押しつけようとする態度を非難する言葉」が「まかせ」であるといえよう。そういう意味で言えば、私が個人的に考える「学校まかせな態度」というのは、「ハンカチやティッシュを忘れないで持参させるようにするのは、ハンカチやティッシュを持参させることを決めた学校の管理責任」「学校が持ってこさせたいなら当然学校が用意すべきだ」と主張して、保護者側でなんらハンカチもティッシュも用意することなく当然持って行くことの補助指導もしないとか、「宿題は先生が出したもの。忘れないようやらせたいなら先生が各家庭に電話して子どもに注意喚起すれば良い。保護者はなんら関係ない」とするような態度のことではないかと思う。子どもの教育という大仕事は当然ながら家庭と学校が協力しないと実現しない面があり、それを保護者が理解しようとしなければいつのまにか「教育は学校の仕事」になってしまう。そういう態度が(実際まわりを見渡してもそこまでの保護者は相当レアなのであるが)「学校まかせ」と言われるならわかる(しかしこれも程度問題であって、だからといって学校側がきめたことに何でも親は従うべきだと言っているわけではないが)。

で、ニュースの話に立ち戻ると、ではこのニュースにおいて「行政まかせ」と指摘しているものはいったい何なのかというと、受賞団体のひとつ「幸町1丁目コミュニティ委員会」の活動において明文化されている部分だけにかぎっても、
①買い物が不便で困っていることを行政に何とかしろという態度。
②庭木の枝切りができなくて行政に何とかしろという態度。
③ゴミ出しができなくて行政に何とかしろという態度。
であるらしいことがわかる。
ようは、これらのことを自治会の役員OBなどが中心となって委員会でやっているから、行政は対処しなくてよくて助かったね偉いねという話なわけである。

私はこれらの熱心な地域活動が「素敵だね」と賞賛されること自体には特に違和感はない。そこに「行政に頼らなくて偉いね」の評価目線が入ってくることに違和感があるのである。
つまりこの記事で、このコミュニティ委員会がどうのという話をしたいわけではないので、これはこれで素晴らしい取り組みだということを念のため申し上げておきたいが、問題を感じるのは行政側の態度なのだ。
①は、それは市(いち)が定期的に立てば便利は便利だろうけれども、「あーよかったこれで行政はなんもしなくていいや」という話ではないはずだ。市(いち)というのはスポットでひらかれ、提供商品も限られているはず。発想としては市(いち)というのは売り切りメインだから、買えない弱者も出るわけで、ハコモノ商業施設の代替になるわけではない。定期市は「ボランティアのおかげで成り立つちょっといい話」ではあっても、「行政に頼らず自分たちの生活資源調達ルートを確立しよう」というような大それたものではないのではないだろうか。
「地域社会の高齢化が買い物不便につながる」というのは、なにも野菜調達だけの話ではなく、病院にもホームセンターにもクリーニング屋にも駅にも行きづらくなるという話であって、日本全国これからの行政課題であることは間違いないだろう。さっこん国レベルでも気のせいか、「そんなの家族で助け合いなさいね」とお茶を濁される場面を多く見るような気がするのであるが、家族や地域での助け合いは助け合い。行政というのは家族がいなくても地域団体に加入していなくても、基本的人権を保障するのがオシゴトであり、そのために安くない税金を国民からかっぱいでいるのではないのか。なんだかもうまるで「子ども食堂もあるから君たち安心しなさいね」とか平気で言う某国首相のようなのである。

②であるが、庭木の枝切りなんてのはきわめて個人的な問題であって、そもそもそんなサービスがある自治体のほうが少ないであろう。それとも千葉市民は「うちの庭の枝が伸びすぎて困ってる」みたいな話を行政に持ち込む慣習でもあるのだろうか? 「助け合いがあっていいね」という話だけならわかるが、なぜその活動が「行政まかせにしてない、いいね」という話になるのかがちょっとよくわからない。

で、③であるが、うちの自治体は高齢者や障害者などの弱者に対して、ごみ収集の職員が直接居宅に立ち入って収集をする行政サービスがある(それとない見守りも兼ねている)。千葉市の場合、そういう支援をする地域団体に対して支援対象1世帯当たり月1,000円という、けっこうな補助金を出しているようだ。これを見てもわかる通り千葉市というのはもうカラーとして「地域団体主義」「草の根自治主義」みたいな香りがする自治体なのであった。ここの首長は以前、「年寄りの健康度合いに従って介護保険を地区別料率にしたらいい」などというオイオイ発言もしている。
それはそうと、けっきょくのところ千葉市は「ごみが自力で出せません」という問題に直接対応はもともとしておらず、「世話してくれる団体が居ると良いね、居たら補助金出すからね」というだけの話なので、庭の木の枝とあまり変わらない。直接サービスをしている当自治体が「地域の人同士でごみ出し手伝いしてもらえると助かるわぁ、ありがとう」と感謝表彰するならわかるが、もともと「そんなの地域でやってね」と言っている自治体で地域同士でやったからといって「行政に頼らなくて偉いね」という表彰に何故なるのか。このあたりもナゾなのである。つうかもともと頼らせてないじゃんね表彰されてもね?などと思う私は心がゆがんでいるのであろうか。

これらの謎の表彰、謎の目線のカギをにぎっているのが主催団体「公益財団法人あしたの日本を創る協会」である。この協会の事業内容をみれば、この団体がこの表彰をする理由自体は理解できるのであるが、この、雑居ビルの一角でほそぼそと有志活動をしてそうな協会名に似合わず、ディスクロージャーを確認するとたまげるほどの巨額の金が動いており、「これもしかして天下り団体じゃ…」などとうっかりじゃすいをしそうになるのであった。事務所は一等地の西麻布、「一般財団法人日本交通安全教育普及協会」というやはりうっかりじゃすいをしそうな団体と同じビルにある。こういう仕掛けを見て「・・・・・・」と思う私はやはり心がゆがんでいるのでありましょう、というのがこの話のオチでした。お清めお清め。なむなむ。
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ようするに国土が狭いのがいかんわけだけども

なになに主義、でむりやり分類すればどちらかというと「個人主義」に入るであろう私がこんな話をすると意外に思われがちなのだが、そしてそういう趣旨のことを案外あっちこっちで言ってたりするのだが、「社会の秩序を尊重したい派」なのである。どういうことかというと、「個人の主義嗜好を通したくなってしまう場合でも、みんなのことを考えて社会のためにそれがいいなら、ちょっとくらい我慢せんかいな派」なのである。
「お前PTAを脱会したどの口がそんなことを言う」といっせいに各方面から責められるかも知れないが笑、現行のPTA会員でいることは社会規範を守ることでも、社会貢献することでもないと自分なりに判断したからこうやって離れ無人島におるわけだ(じょじょに非入会が人気になってきて小島も人口が増えてきたような気がするけども…)。むしろブラックPTAてのはあれ、「主義嗜好を通したくてワガママしてる団体」ですからな。

最近の「いや〜それはもうちっと、何とかならんかったかのう」と感じる「個人の主義嗜好が社会を押しのける」は、このニュースであった。
中学の部活「生徒の声出しうるさい」 住民の苦情に運動部は無言で練習

我が家もけっこう、学校はまぢかにあって、そりゃあうるさい。夏だけだが朝練もやってるし、土日も開放してるからホイッスル音や黄色い声、おっさんのバカ笑い、カキーンとソフトボールを打つ音などにぎやかだ。運動会ほか行事の時は先生もマイクでがなりたてるし。というか子ども自体が近所にウヨウヨしてるから、ピンポンするやら、ボールを蹴ってうちの車にあてるやら、猫を追いかけて狭い庭に侵入するやらなにやらかにやら。小さい子だけでなく、中高生もいるから道路で大声でだべるだべる。うるさい。

私は迷惑をこうむったときは「こらー!」と遠慮なく怒る。昔、近所のガkお子様がたがちょうしにのってウチの壁に泥団子ぶつけパーティーをした揚げ句全速力で逃げやがったときは、親も呼び出して苦情をいい、子供らにバケツとブラシをもってこさせて掃除させた。

だから「私は寛容な人間である」なーんてことは口がさけても決して言わない。そんな事実におもいっきり反することは言えない。うるさいもんはうるさいし、迷惑なもんは迷惑なのだ。

だが、だが。

どんなにバカタレどもを怒っても、決して「もうここで遊んじゃだめ」とか、「二度と来るな」的な意味のことは言わなかった。また来て、また怒られればいい。私がいなければ、しめしめと遊べばいい。そんなふうに思ってた。
相手は子どもなのだ。
確かに、私の家は私の所有ではあるものの、「私有地」なんてもんは大人が勝手に決めたこと。大人が全員、「ここは私有地」と言い出したら、子どもはどこで遊ぶのだろう? 道路もダメだし危ないし。幼児向けの遊具がおかれた公園にしか、子どもは居ちゃいけないのだろうか? 今はもう、土管が放置された空き地のあるドラえもんの時代ではないのだ。

同じような話で、猫のことで夫婦で口論になったことがあった。野良なのか近所の飼い猫なのか分からないが、しょっちゅう入ってきては、庭でうんこをしたり雑草を食べてはオエッオエッとやっている。
「まったく困るわ〜あいつめ」と私が言い、夏みかんの皮を置いてみたりトイレのサワデーを置いてみたり(笑)、猫が来たらライトがつくようにしてみたり、見かけると「こら〜」と怒ったりしているのを見て、夫が「保健所に連絡したらいいだろ」と言い出したのだ。
私が「それじゃあ殺されちゃうじゃん!どこかの飼い猫かも知れないのに」と怒り出すと、「えっ…?」と目を白黒させ、「嫌がっているから根本的な解決を提示しただけなのに」と困惑していた。
迷惑だからぶっ殺せばいい、というわけではなかろう!という私の話はなかなか理解してもらえない。「猫が侵入してきて迷惑なんでしょ? 侵入してくる方が悪いんだから、完全に除去すれば解決すると思うけど」と言う夫に、「猫っていうのは、石とか、草とか、風みたいなもんでしょ!そういうものは、そこにあるもんなの!要らないからってなくせとか、おかしいでしょ!」と怒る私の言ってる意味は、まったく理解されず、ひたすら鳩が豆でっぽくらったような顔になって、その話は「石とか草とか言い出してとりあえず意味は分からないが妻が怒ってるらしいから」ということで終了したのであった。

部活の朝練がうるさいって話も、そりゃあそうだろうし、毎朝、そして永遠に続くと思ったら、精神的にもやられてくるというのはある程度わかる。ただ、そこは学校なのだ。
そんなに毎朝、練習をしているのも異常ではないかという話もあるが、内容が広がりすぎるのでいったん「部活問題」はおいておく。
私は、「学校という場所は一定量、絶対にうるさいものだしそこで子どもは育ってる」ということをここでは言いたい。

うちの小学校の近所にもこの記事に出てくる住民と類似の方がいて、「学校に出入りする車が多くて迷惑」と言う。そのうち、ずっと監視しているかのようになってしまい、フェンスの近くで子どもを降ろしただけで「また送迎してた!」とすかさず苦情が入るようになった。
確かに近所で車の出入りが多いのは決して気持ちの良いものではないだろうが、そこは公道で学校は公共の場所だ。どういう発想で「私の静かな環境を破壊するあなたがた」というところにまで至り、根絶してもらわなきゃ困る的な行動にまでなってしまうのか、人とは分からないものだ。

海辺に家を建てて、「朝から晩までザーザーと、波いいかげんにしろ!」と苦情を言いに行く人はいまい。自己の都合を優先して主張しても良いものだと考えるから、学校に「子供の声うるさい」と苦情を言う発想になるのであろう。「おお今日も元気に声出して朝練やっとるねえ」とほほえましく見守れとは言わないし、迷惑なのも苦痛なのも分かるが、無言で野球の練習させるような結末にいたって、本当にその住民の方は満足だったんだろうかと思ってしまう。「じゃあ、黙らせる以外どうすりゃ良かったんだ!」と言われれば私も個別の状況を知らないから答えられるわけでは無いんだけども、「もうちょっと何とかなりませんでしたか…」という思いは消えないし、「次世代を育てられなくなっても個人の快適生活を守りたいとなったら人間も終わりじゃね…?」と心の中だけではあるがひっそりと過激にdisってみたりするのであった。いえあの、小さい声でね。

手を替え品を替えいろいろと思い付くね


三多摩中学校PTAが私に「心よりお詫び」し、「今後PTA非加入者がPTA会費を納入することがないよう改善を図る」と誓ったのはもう3年も前の話だ。

そして今年度、次女の月子が三多摩中へ入学したのだが、3年前からはPTAの新入生保護者対応はまたがらっと様変わりしており、こんなのがくばられたのであった。

平成28年4月○日
新入生保護者の皆様
郊外市立三多摩中学校PTA
会長 蓮田 舫子
郊外市立三多摩中学校
校長 磯野 波助
「郊外市立三多摩中学校PTA」の御案内

この度は、お子様の御入学を心よりお慶び申し上げます。
さて、「郊外市立三多摩中学校PTA」は本校の教職員と在籍する生徒の保護者によって組織されております。
「郊外市立三多摩中学校PTA」は、保護者と教職員が協力して三多摩中学校地域社会における教育的環境を整え、本校生徒の健全な成長を図ることを目的として、会員の一人一人が自覚を持って声をかけ合い、ともに考えともに行動して行く会としてまた、郊外市公立学校PTA連合会にも加入し、他校との交流も図り、学びながら活動しております。
 お忙しい日々をお過ごしのこととは存じますが、趣旨をご理解の上、皆様お一人お一人のご参加でより良い会に発展して行きますようご協力をお願いいたします。

【活動内容御紹介】
・学校行事への参加、協力。(一人一役ガイド参照)
・・・(以下略) など

趣旨にご賛同頂き、会費(一家庭につき)○,○○○円をお納めくださいますようお願いいたします。
本会の会費は個人情報保護を考慮し学校協力の元、「学校教材費」と合わせての納入となりますことをご了承下さい。
残念ながら、御了承いただけない場合は下記に記入の上、平成28年4月△日までに担任の先生に提出してください。

キリトリセン


【理 由】


上記の理由により、PTA会費を教材費と合わせて納入することを了承できません。

  年  組  番  生徒氏名
           保護者氏名




(プリント引用 以上)


この文面を読んで、読者の皆様は何を感じられたであろうか?
とくに何も、問題を感じられないかたもいらっしゃるだろうし、「だまって抱き合わせ徴収しないできちんと了解をとって、ていねいなPTAね」と感じられる方もいらっしゃるかもしれない。

しかし私には、ひとことで言うと「入会の任意性の説明や、意思確認を巧妙に避け、会費の話にすり替えている」と感じられた。
入会の意思確認をしていないのに、いきなり会費の納入方法の話をするのは、「ピーマンとにんじんどっち食べる論法」(参照)にほかならない。

こういう老獪なプリントにイラッと来ないかたは、私がPTAを退会した理由も永遠に共感することはないのであろう。「ていねいな文面、意思の尊重、なにがいけないの?」という感想になるのでしょうな。

このキリトリセン以下を提出しなければならない義務など私にはないのだろうが、めんどうを避けるため、書いて出した。

【理 由】
     PTA未加入のため。

これしか書きようがなかろうと思う。
入会を申し込んでもいない団体から、「学校経費と一緒に会費引き落としてもいいですか?」と訊かれたら、そりゃダメに決まっている。抱き合わせ云々の前に、入ってないんだもん。

このプリントに悪意を感じない人のほうが多いのだろうが、しょうわるな私にとっては「うまく持って行けばまんまとピーマンかにんじんかを選ばせられるアホかなんかだと思ってんの?」としらけさせるに十分なものであった。PTA役員さんの苦心の作だったのかも知らんけどすまんことです。

それにしても3年前に、「今後PTA非加入者がPTA会費を納入することがないよう改善を図る」と誓ったのではなかったろうか? だれひとり加入届を出していないのに、このプリントの提出さえなければ全員じゃんじゃか引き落とすというのは、なんだか言ってることとやってることが違うような…。
まあな。役員も変わってるし、過去の「今後の改善策」やら「誓います」なんか、知ったこっちゃないわな。HAHAHA。

働く と 子育て のこと

まるおさんにツイッターを紹介されて見様見真似でやり始め、いまだに何を押せばどうなるのか機能もいまひとつわかっていない私であるが、私がリツイートしたみやっぺさんという大学生のかたに質問をされている。

返事をしようかなと思うものの、ツイッターはいっぺんにちょっとしか投稿できないので、もともと話の長い私にとって、ぶつぶつ切りながらいっぱい投稿するのもなかなかキツイのである。

というわけでこちらに書くことにした。

会話の流れとしては、

>みやっぺさん
働く女性にとって、子育てを一人でやるのは難しい現状。しかし祖父母に頼り過ぎになってしまうのは子育てが各家庭で充分にできる仕組みができてないから。

この現実をどう考えるのか。
http://digital.asahi.com/articles/ASH7F3T7RH7FUTFL001.html


>ぶきぶき(←あ、これ私です)
なんで女性は働いてても一人で子育てが前提→大変だから祖父母頼み、になるのか 真 剣 に 分からない。


>み
こんにちは!女性の方ですか!!
働く女性の子育てがどうあるべきか意見をお聞きしたいです


>ぶ
こんにちは。私で分かる事でしたら御質問どうぞ。


>み
ありがとうございます!働くと子育てを両立するのはやはり難しいのが現状なのでしょうか…(._.)
私は自分の両親含め、周囲の方々の助けが両立においていちばん重要になってくると思うのですが、どうお考えですか?


>ぶ
「両立」とはどのような状態をさすのでしょうか?

それはともかく、自分の両親を含めた周囲の方々に助けてもらうことが(両立、はさておき)自分の子育てに重要だ、とはいちども考えたことがなかったですね。
あ、保育園は別です。保育園はないと働けませんので。(1/2)

周囲の方々とは、これまたよくわかりませんが、たとえば近所の方とか、そういうことですか?(2/2)


>み

子育てって予想もつかないことが多いと思って、例えば小さい頃は夜泣きがひどかったり熱を出したりした時などは両立が大変だと思うのですが、それは職場の雰囲気とか自分の意思などでどうにかなるものなのでしょうか…(._.)(1/2)

そうです!近所や保育施設・サービス、自治体など地域の受け入れる環境が整っていたら1人で抱え込むお母さんも減るのかなと思いました。(2/2)


となっている。

1/2への回答を考えてみた。
まず夜泣きと熱は問題がまったく異なるので夜泣きを先に言うと、夜泣きというのは子供にもよるがかなり多くの割合で0歳児で集中的におこるものである。そして、夜泣き問題は当たり前であるが夜寝てるときにおこるので、保育サービスの有り無しとはまったく関係がない。
そもそも夜泣きのどこが問題なのかというと、子供には何の問題もなく、親が熟睡できないことだけが問題なわけである。
夜泣きを静めるためには、ゆすったり、抱っこしたり、夜の外気にあてたり、暖めたり冷やしたり、いろいろあると思う。昔、欧米人と結婚してあっちに移り住んだ知人に「そんなの静かになるまでほっとくに限るわよ」と言われ腰をぬかしたが、まぁそういうふうに、極端に言えばほっといても死ぬわけではないということだ。よって赤ん坊本人にとってはさして問題ではない。

親が眠れないことが主問題であるので、たとえばの話、119番に電話すれば夜泣きストップ隊がうかがって赤ちゃんをゆすります! みたいな自治体サービスがはじまったとしても、そんなものを利用する人は少ないだろう。着替えてお礼も言わなきゃいけないし、よけい眠れないじゃんね。

ようするに夜泣き問題というのは「朝、眠いけど働きに行かなきゃいけない問題」なのであって、それって結局スケジューリングの問題だから、「子育て問題」なのかというのもちょっと微妙かなという気はする。
夜泣きするかどうかというのも子どもによってものすごく違うしね。
人生にはいろんなことがおこって、時にはあまりよく眠れないような一時期もあって、そういうのをいろいろ乗り越えてみんな働きに来てるんで、特にそこだけ「子育てしてて夜泣きするかもしれないから会社や社会は何か考えて!」というのもどういうもんなんだかな、という気がするのだ。

自分に限って言えば、はっきり言って、会社で働くってのは子育て労働の10倍楽なんで、昼間保育園でみてもらえて会社に行かせてもらえるなら、夜泣きあけにその子やきょうだいの育児を1日自分でやるより全然らくなのだ。赤ちゃん1人なのか、上の子も居るのかでもかなりちがうけど。育児中って、なぜか意外と睡眠時間こま切れでもけっこういけるし。
昼間保育園で見てもらえる、以上に、特に「働く女性」だからといって夜泣きに対して何をして欲しいの?と思うのが正直なところである。
有職無職関係なく、「夜泣きの翌日、育児中の親が子どもを数時間預けて眠れる施設」をつくろうという話ならまだ分かるが。

次に「熱」について話すが、「熱」というか「病気」についての話になるが、子どもが病気なら仕事を休まなきゃいけないのはしょうがないだろう。自分が病気の時は働きにいけないのと同じように、子どもが病気でも働きにいけない。これは自分の意志とは関係ない。それを前提にしたとき、「休みにくい職場」より「そういう理由であれば休みやすい職場」が多くなったほうが、子供を持っていても働こうという人が増えるよね、という理由から、政府はいわゆる「くるみん」制度だとかをやっているわけである。
国の方向はそういう整備であり、休みやすいというのは自分も休めるわけだからいいと思うが、祖父母や近所や保育所の受け入れ体制があったほうがいい→つまり子どもが病気でも親は働きに行け、という話だと方向は全く逆になる。
子どもが病気なら親が休めばいい話、というか病気の子どもは近所なんかに預けられたくないだろうまずもって。そもそも、病気の子どもを近所をはじめとする「非保護者」が受け入れる、というプラン自体、現実的なものには思えないが…。
なんだか三丁目の夕日臭いというか、政府が大好きな「絆」や「自治」や「地域協働」の画餅で子育て社会を作ろうとしているようにも思え、そんなものが理想的に稼働するようならPTAでこんなにもめないんだよ!とちょっと毒づいてみたりしたくなったのであった。

隣に不審者が居る時代なのに、私は近所に病気の子供を預けて会社に行こうとは思わないなあ…。
それで会社に行けなくて、「辞めろ」って言われたら仕方ないじゃん。人生山あり谷ありだよ。と思うくらいなのだが、いまは政府が「そんなことで辞めろって言っちゃいけません」という方向でととのえようとしてるみたいなので、それはいいことだなと思う。

そもそも、子育て専用施設であるはずの保育園が、「病気の子どもは預かれません」という基準を何十年も緩和できていないわけで、それなのに「熱を出す子ども」のサポートとして近所や祖父母を想定しちゃえというのもずいぶん乱暴な話ではあろう。

どっちにしろ子育てなんてのは単なる生活の一部であり、別にうやうやしくたてまつられるほどの特別大事業ではない。周囲の人には周囲の人の生活があるのに、「周囲の人の協力が不可欠」なものを勝手に始めちゃいかんだろう。と思いませんか?
PTAでもそうだが、「協力が不可欠」と言ってくるわりには、活動内容はこちらになんの断りもないけど…? と思う私はなんかヘンなのだろうか。

夜泣きや熱のサポート、についての話は以上なのだが、そもそもなんでみやっぺさんをリツイートしようと思ったかというと、理由は全然別のところにある。なぜ、大学生みたいな「もっとも頭が柔らかく先入観がないはずの」若者が、
>働く女性にとって、子育てを一人でやるのは難しい現状。
などということを言うような教育になってるのかな?と思ったからである。
なんだかしらないけれど、父親の存在が全然想定されていないというか、子育ては女性の仕事であり、女性が働くって事は、子育てと仕事と両方一人でやることになるから大変だよねえ、という話をしているように聞こえたので、なんでやねんと思ったからなのだ。

まあツイートは文字数制限があるから、全然そんなつもりがない発言なのであれば大変失礼したと思うが、文字列を見るかぎりではそれがみやっぺさんの中での想定である、というふうにしか受け止められなかったのであった。

レストランのハッピーバースデー

まー何であれ組織や団体という物は、どうしても個人の意思というのは多かれ少なかれ塗りつぶされるものであろう。
会社然り。あたりまえだが「そんなことやりたくありません」がそう簡単に通る場所ではない。
義務教育の学校然り。文科省がかってに決めたプログラムを、全員あまねく修了せよというのであるから、もともと個性の尊重とは相性のわるい場所といえよう。

前者は入る自由も出る自由もあるから(人間お金を稼がなきゃいけないので完全に自由とは言えないものの)、まぁ自己責任でがんばるしかない。
後者は、私のような人間は子供のころからキライであったのだが、やはり人間社会が規律を持ったものである以上子どもに教育は必要であるので、多少の強制と、それに相対するがまんはしょうがなかろう。もちろん改善の余地は多々あるのだが…。

前者は自由意思での所属、後者は義務としての所属、とわけられるわけだが、この中間に属する
「義務ではないものの意思に関わらずいつのまにか巻き込まれ、賛同をしないわけにはいかない局面に追い込まれる所属性」というものが人生の中でとつぜん浮上してくることがある。

たとえば、本記事のタイトルだ。
あなたが家族と一緒に、何週間も前から楽しみにしていた映画を封切り日に観にいき、帰りにレストランで感想を交わしながら、いま給仕されたばかりの湯気を立てるアルデンテのパスタに取り分け用のフォークをつきたてようとしたその時、館内の照明が落とされる。
2ブロックほど離れたテーブルに置かれたケーキのろうそくがともされ、

♪ハッピーバースデートゥーユー

と手拍子がはじまる。
そして歌が終わった頃、ろうそくに顔を照らされた、全然見知らぬおじいさんが顔を紅潮させ、うれしそうにフーッと吹き消す。

♪パチパチパチ…

とレストランの客がみな拍手。

いや、いいんですけどね。
おめでたいですよ誕生日。
よかったね長生きして、おじいちゃん。

でもね、あたりまえだけどレストランって、いろんな人が来るんですよ。
うちみたいに、いまは映画の話をしていて、人の誕生日の話はしていない家族もいる。
パスタって茹で立ては1秒でも早く食べたほうがいいんだけど、それを目の前にして暗闇で手拍子をしなきゃいけないことを辛く思う家族もあるかもね。
でも、パスタをすぐ食べたいというリクエストが「身勝手」と思わされるような空気がレストランに流れちゃってるんだよね。

もしかしたら別なテープルでは、離婚したあとの養育権をどうするのか、料理にあまり手もつけずに話し合いをしてるのかもしれない。
ひょっとしたら別のテーブルでは、余命宣告された人が入院の前の晩、ささやかにポタージュを飲んでいるのかもしれない。
レストランはそういう場所。

誕生日はいいことだ。
誕生日はうれしいことだ。
誕生日を祝う人は、多いほうがいい。
しかしその一方で、大人なら、「居合わせた人のことにいっさい配慮なく、いきなり“お祝いよろしく!”と巻き込んでる」という認識も欲しい。
レストランでお祝いをやるなというつもりは毛頭ない、レストランでお祝いすることもあっていい。しかしここは自宅ではないんだけどね、ということも頭のどこかすみっこに置くのが「大人」なんだろうなあと思う。

リンクもさせていただいているThink!PTA!の掲示板の書き込みの一部に、地域自慢と思われる記述があった。
このトピの【4623】
不登校ゼロ、いじめなし、給食未納ゼロ、学力テスト県トップクラス、授業参観参加率8割以上、ガラスの予算を組まない(割られることがないため)、県警によると非行率最低水準の地域です。
という部分である。

この書き込みにたいする批判ではまったくなくて、「私の感覚・知覚」の説明をしているのだが、「不登校ゼロ」というひびきは肌に粟立つものがある。
不登校になることすら許されない空気、って怖く感じてしまうのである。

いじめなし、も怖い。
いじめゼロで、子どもは育つのだろうか?
いじめをしながら、子どもはやっていいこと、やってはならないことを学ぶのではないだろうか?(※)
教委に「いじめはありませーん」と報告出来れば、そりゃ晴天すみ渡ったごとくにスッキリさわやかな話だろうが、
「んなわけねーだろ」
という嗅覚をプロの教師が持てないというのは、なかなかに怖いことのような気がする。

※もちろん、学びの材料だからいじめをしてもいい、と言ってるわけではない。
 深刻ないじめはゼロのほうがいいに決まっている。
 しかし子ども(というか人間)が集団化すれば、現に普遍的にいじめはある。
 軽いいじめ行為を経験することで、その加害者のにがにがしさや被害者のつらさを学ぶ。
 程度問題もあるが、そうしないと学べない愚かさを人間は持っている、と思う。
 そんな馬鹿なことしなくても、最初からゼロなら一番いいじゃないか、と言われればそうかもしれないが、ちょっと現実的とは思えない。
 だから「いじめなし!」と断言する人は、ただ見えてないだけか、見ないことにしているだけ、の可能性がある。と言っているのである。

ましてや、保護者同士で交代で集金しあってるから給食費未納が無い、という状態はもはやホラーでしかないと私なんかは感じてしまうのだ。
誰の責任で集金してるのかわからない状態。
学校が欲しい金を、とつぜん集金して歩かされる理不尽さ。
保護者の相互監視。
怖い…。

さらにさらに授業参観率8割以上、というのもけっこう怖い。
参観しないという選択をするのは心理的に大変だろうなあと思うだけでなく、参観率ってどうやって算出してるんだ?という疑念もすぐにわく。
教師がカウンターをカチカチしながら授業してるんだろうか?
受付でクラス名簿に○をした数だろうか?
受付で○をつければ参観したことになるの?
きょうだいがいてあっちこっちのクラスに短時間ずつ行かざるを得ない人は、どういうふうに評価されるんだろう?
というかカウントされる、ということ自体が怖い…。

不登校の子がいないことも、いじめがないことも、給食費の未納がないことも、保護者がたくさん参観に来ることも、「いいことだよね!?」と言えばそうかもしれない。
しかしそのどこかに、レストランのお誕生会のような有無を言わさぬ暴力性がただよっていると感じてしまう。
ましてや投稿者のPTAが強制加入であると聞けば、もう心臓バクバクものなんだよねこりゃ。
「賛同しかねます」と個人が言うとしたら、いったい、どこでそんなチャンスが与えられるのであろうか?

こんなに「いいこと」に対してそう感じるなんて、私の感覚が、きっとよっぽどひねくれているのであろうなぁ〜。
こういう話を聞いてしまうと、「そんなに優良でもないごく並レベル」の今の土地で暮らしている自分に「たまたまだけどGJ!」と言いたい私なのであった。

挨拶はマジメにやりましょう

いやまじこの際、「挨拶」という行動について真剣に考えてみようかなとおもったのだ。どうしてそう思ったかというと、こんなニュースがあったからなのである。
「挨拶無視した」中学生の写真掲載 愛知・半田市議「うかつだった 」

いずれリンクも切れると思うので内容をまとめておくと、「交通安全啓発のため交差点に立っていた」市議が、挨拶しないで通り過ぎる中学生に腹を立て、フェイスブック(オープン)に写真付で、「挨拶できない、しない中学生集団」というタイトルの投稿をしたものである。

実にアホな市議である。
名誉毀損で訴えられるかもしれないが、念のため再度書くと、実にアホな市議である。
中学生という発達過程において、交差点に突っ立ってる知らないおじさんから交通指導をされて、「はい、すみませんでした」と言うことを聞いて背筋を伸ばして正しく信号を待った上で右左右と確認したり、顔を輝かせて「おはようございます!」とか嬉しそうに挨拶する中坊がいるとでも思っているのだろうか?? いや、いるのかもしれないが、さすがにそれはちょっと心配な中学生ではないだろうか?
なんでだよ、と根拠を求められると困るのであるが、何となく私の想定する「普通の中学生」というのは、
①交差点にそんなおっさんがいたら、どうやったら「バカ」と書いたガムテープを背中に貼れるかひそひそ相談する。
②「ムリ〜」と小声で言いながら遠巻きに避ける。
③「オハヨ〜ゴザイマ〜ス、オハヨ〜ゴザイマ〜ス」などと九官鳥風風に言う。
④普通に挨拶はするが、めんどくさいことが起きるのを避けるためであり、おっさんに親愛や感謝の気持ちを表したいわけではもちろんない。
etc.の反応が一般的なのではないかと思うのだ。

別な記事では、この中学生軍団は30kmウォーキングという明らかに嫌がられる行事の日だったというではないか。そんな吐きそうな行事を強制されている朝に交差点で、「俺様が報酬も出ないのにわざわざボランティアで朝の8時から交差点に立ってやってんだぞ」的なニオイをぷんぷんさせた知らないおっさんにさわやかに挨拶されて、にこやかに返せるかっちゅうの。うちにも中学生がいるが、きゃつなら確実に④を選択しつつも挨拶は口の中をかすかに動かす程度であろうことを断言する。
そもそもウチでは「知らない人に話しかけられたら逃げなさい」と教育してるしなあ。子どもはあまり守ってはいないようだが。
それがいい教育だとは思ってるわけではない、でも昨今の世情では安全が最優先だ、悪いけど。

自分の立場が「単なる知らないおじさん」であることもわきまえず、「俺様が声かけてるんだから中学生はあいさつ返して当たり前」という感覚もかなり残念ではあるが、それが裏切られたからといってオープンのフェイスブックでさらすという幼稚な報復もまた、あいた口がふさがらない。

まあこの人は市議でありFB投稿なんかをやっちゃったもんだからネットでさらしもんになっているわけであるが、同レベルの意識で旗振りをやってるかたがたもじっさい、表ざたにならないだけで少なからずいらっしゃるわけで、私が「素人の旗振りはときに有害である」とあちこちで書いているゆえんでもある。

さて、人のわるくちはこれくらいにして、そもそも書きたかったのは「挨拶とはなにか」ってことなのだが…。
まったく知らない成犬にニコニコと声をかけながら近づいてみよう。 この時点で、こっちがニコニコしているからとしっぽを振りまくりいきなり前脚をかけて顔を舐めにくるような犬は、まれにみる能天気な犬かバカ犬かのどちらかではないだろうか? 普通に賢く経験を積んだ犬なら、最初はぎょっとした様子をして少し下がったり、様子を窺ったり、こちらの手やズボンの臭いをふんふん嗅いだりするものではないだろうか?
ましてや人間の子どもであれば、小学生までなら「挨拶されたら挨拶しなさい」という単純なパターン訓練も効き目があろうが、中学生以上になれば、そんな訓練に疑問を持って当たり前である。挨拶とは単純なピンポンゲームではなく、意味の有る親愛行動なのである。

昔、子ども同士が同級生のお母さんで、通勤時間の関係でよく会う人がいた。
私が「おはようございます!」と声をかけると、いちおう「…よざぁす」みたいな感じにぶつぶつと口は動かすが、にこりともせず目はそらしたままであった。毎回、毎回そうだった。
なにか私が気に障ることをしてしまったのかなと思わないでもなかったが、気に障ることをするほど近い仲でもなかったので、ただただ「???」という思いであった。

何年か後、その方のお子さんが亡くなり、実は何年も闘病されていたことを知った。そして引っ越されていった。
私は、「なんだろうあの挨拶は…?」と、言わば自分のことしか考えていなかったことを恥じた。とてもじゃないが、明るく挨拶なんか返す心境ではなかったのだ。

中学生だって、心が暗くなることはある。悩んでいることもあるだろう。おっさんが声をかけてきたことに単純に気がつかなかったのかもしれないし、これから30km歩くと思うとそんな余裕もなかったのかもしれない。大きな声で挨拶するのはよいことだ! とだけの単純な方程式を押しつければ明るい人が育つなら、育児なんて苦労はない。
社会人ともなれば、人が挨拶しているのに気が向かないからと無視するような人はさすがに少ないが、中学生はまだまだ子どもでもあるのである。義理にでもあいさつが返せるようになれば少しは成熟と言えるかもしれないが、それは社会スキルであって、善というわけではないと私は考えている。スキルの未熟な子どもには経験を積ませることが大切だが、ネットでさらすというペナルティは違うのではないだろうか? (ま、あらかじめ合意したルールではないからペナルティとすら言えず、単なる思い付きの私刑であるわけだが)

私はもちろん、朝、起きてきた子どもたちにおはようと声をかける。元気なときもあれば、何かふくれっつらの時もあり、おはようというより先に「今日は○○がある」などと、学校の憂鬱なカリキュラムや楽しみな行事のことを言うこともある。
そういう様子を見るのに、挨拶はとても役に立つし、別に大声で言わせることが目的ではない。家庭は軍隊ではないし。
こちらの気持ちの押しつけだけの挨拶なら、しないほうがマシな時もある。
私が校門での一斉あいさつや素人の旗振りが好きでないのは、何も強制PTAの運動だから、というだけではないのだ。

新年吐き出してオメデトウございます

ブログ読者のみなさま、新しい年が明けまして誠におめでとうございます。
本年もまたひきつづき、くだらない土台にくだらない飾りをのせた作文をこつこつ書いていきたいと思います。時々ワナワナとぶん殴りたくなることもございますでしょうが、どうぞこらえて何卒穏便によろぴくおねがいします。

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最近私のインナーチャイルドが「昔を思い出して腹を立てようキャンペーン」でもやっているのか知らないが、またしても自分の母親の所業を思い出してはじくじくむかむかと来ていたりするのである。

というのも、うちの夫は子どもを1ミリでもデカくしたいのか、子どもが「ごちそうさま」と言うと、必ずと言っていいほど「お代わりしないの?お代わりすればいいのに。もっと食べないと大きくならないぞぉ」などと言うからだ。

「ごちそうさま」とは「もうお代わりはしません」という意味であるのに、なんだってそんなわかりきったことを聞くのか、というかすかなイラッと感もある。
その証拠に、子どもが「ええ?それじゃあ、お代わりしようかな?」などと言ったことはない。100回同じことを聞いたら100回、ことわられているのである。
それに、「お腹が一杯のところにさらに詰め込んだら不快になるだけなのに、なぜそんなことを強いるのか?」という、子ども目線(のつもり)での嫌悪感もある。

子どもが自主的にお代わりをすることもある。その場合、「ごちそうさま」と言われて夫は黙るかというと、やはり「もっとお代わりすれば?」などと言うのだ。

こんなことでいちいち内心で腹を立てている私はおかしいんじゃないかという気持ちもある。
以前ニュースになっていた給食アレルギー事故でも、本人が自主的に望んでいないのに教師がお代わりを勧めてまわっていた、というポイントにも反応して腹を立てていた私である。

私は何故そんなに、お代わりのお勧めに過剰反応するのか。
勘のいい方はもうお気づきと思うが、そう、私の母親がまさにそういうヤツだったのである。

私はもともと食べることにあまり積極的な子ではなかった。という記憶がある。
ごはんの時間が嫌で、ちゃぶ台の前で正座して、全部たいらげるまで解放されない。という状況がいやでいやでたまらなかった。
私は食の細い子だった−−−しかしこの記憶自体、作られた記憶なのではないか?と最近思うようになってきた。
「全然食べないね」「もっと食べなさい」「がんばってあと1口」「おかわりしなさい。なんでしないの?」
などと失望感たっぷりの顔で毎食のように攻められたら、
「私は全然ちゃんと食べられない、だめな子なんだ」「私は食が細いんだ」と思いこまされても不思議ではない。

子どものころから私は本やパズルやトランプが好きで、あまり走り回ったりしない生活だった。子どもにしては物静かな日常なのだから、そんなにカロリーの高いものにガツガツ食い付くほうがおかしい。
ましてや、かなり大きくなってから親戚に聞かされたのだが、母は商売で出入りする人たちが幼児の私に次々に菓子をくれるのを止めることも制限することもなく、ひどい虫歯になっていたのに断ることもしなかったというではないか。
小さい体でそんなもん無制限に食べてたら、ご飯が進むわけはない。
幼い私は食が細くも何ともなく、きわめて正常な食欲を持ち、血糖値が上がっていればそれ以上むりやり食べられないという、ごくまともな反応をしていただけなのではないか?
私は何も悪くなかったのに、なぜあんなに食事のたびに罪悪感を背負わされ責められなければならなかったのか、よくよく考えると本当にハラがたってきたのだ。

本人がごちそうさまと言っているのに無理強いして、さらに食べさせることに成功したとして、それでハッピーになるのは誰なのか? 勧めた人は、パワーにより人の行動をコントロールできた快感を得ることができるかもしれないが、食べさせられる本人はどうだろう? 満腹の時にさらにものを食べて、美味しいだろうか? どんないいことがあるというのだろう? 苦しい、きつい、気持ち悪いだけではないか?

うちの夫のはただ儀式として言うだけだし、子どもにもスルーされてるので別にほっときゃいいのだが、うちの母親のそれは、父や兄も加担してきたので、もはや現代基準で言ったら完全な家庭内パワハラであったと思う。

その余波を引きずってか、私は青年期に「いま、モノを食べたいのか食べたくないのかが分からない」という症状になったこともあった。今ならさしずめ摂食障害という病名がもらえることだろう。もしかするとあれぱ食に関する自律神経が、乱され続けた結果ではなかったろうか? 「人間失格」に、空腹というものが分からない、みたいな表現があり、なんだか分かるなあと思った記憶がある。

※いちおう母の名誉のために付け加えると、母だけが異常だったわけではなく、昭和時代の田舎では「むりやりたくさん食べさせる」というのが最たるもてなし、相手への思いの表現だったりしたんですね。だからパワハラも、子ども愛のへたくそな表現ということにしておきましょうか。

守るも攻めるも追憶の彼方へ

先日、家の窓を開けたらいわゆるひとつの「放送宣伝車」が通りがかっているのが聞こえた。それがふとした引き金になって子供のころのことを思い出したので書いておこう。

子供のころといっても中学時代だが、吹奏楽部に所属していたことがあり、もう定年退職しそうな先生が顧問をしていた。全国大会を目指すほどのアレでもなかったため、まあ日々、勝手に楽譜を入手してきてはコピーものをやったり、各自でレコードをもってきては音楽室のプレーヤーで鳴らしてみたりと、わりとダラダラしたというか、音楽を目指す青少年のたまり場みたいになっていて、まあそれはそれで楽しかったのであった。
しかし、やはり学校でやる部活動という手前、なんらかの活動をせねばならなかったらしく、自治体の祭りのマーチングバンドの代わりをやらされたり、老人ホームの慰問で巡回公演させられたりしていた。
まー晴れ舞台というだけで子供はうれしいからね。それはそれで節目的なものにはなっていたのであるが…

そうなんだけど、その慰問の練習が老先生やたらに熱心で、次から次に軍歌の練習をさせられるわけですよなんだかしらないけれど。軍艦マーチはもちろんのこと、ラバウル小唄とか、加藤はやぶさ戦闘隊とか、同期の桜とか、ひどいのになるとそれらを全部つなげたメドレーとか。何が悲しくて中学1年女子がそんな音楽を練習せねばならなかったのか今もって分からないが、先生はそれらを演奏すれば老人ホームの入居者が喜ぶに違いないと信じ込んでいたらしい。

私も若干イヤな気はしていたものの、当時は「ことわる」という選択肢があるとは夢にも思っていないから、子供なりに一生懸命練習をしていたのであった。
冷静に考えれば、戦時を生き抜いてのんびりホーム暮らしをしている高齢者が、どれぐらい心から軍歌メドレーを「懐かしい!!これこれ!」と喜んでいたのか、大いに疑問であるが。。。

すっかり大人になった、というよりそろそろ老いてきた自分がにがにがしくそれを思い起こしたのは、なんだってそんなラインナップを練習させられなければならなかったのか? ということ自体よりもむしろ、なんだってうちの親はひとことも中学に苦情を入れなかったのか? という不信感である。

うちの母親はもうとっくに他界しているので、ここで悪口を書いても文句を言ってこないので書いても大丈夫だと思うが、私のことにあまり真剣に取り組まないというか、対外的な部分(いわゆる世間体)の方を常に大事にする人であった。
商売をしていて人の出入りも多かったため、私が学校から帰って色々なことを話したくても、ひっきりなしに他人が訪問や電話で話に割り込んできて、制止されたり中断されることがほとんどであった。
(この原体験が、PTA的な「エセ和気靄々」ものが大嫌いな要因にもなっていると思う)

そんなふうに私の話などほぼ聞かないくせに「あなたを信じてる」「あなたは大丈夫」的なメッセージを日常生活に織り交ぜて送ってくる。
丸投げしたいだけ、放置して安心したいだけじゃねーかよと悟ったのが思春期のころでしたね。
中学だったか高校だったかは忘れたけど。

そんなメンツ至上で母親自身が楽しく充実しているのであれば子供もまだ救われようが、そのくせ私と2人きりになると、愚痴をこぼしたり「ああいうの私は嫌い」とコソッと言ったりするわけである。

そういう二面性というか裏面性にげんなりしながら育ったため、必要で十分な程度以上にモノをストレートに言う性格に私はなってしまったのかもしれないのだが、そこまできょくたんな私のような人間ではないにしても、やはり物も解らない子供が音楽教育と称して軍歌の練習させられてたらどうよー? いくら争うのが嫌いな母、父、世間様が大切な母、父だったにしても、そのくらい苦情を言わんかね、いや言おうよそれくらいはと、こんなアラヒフになってから不満をくすぶらせる私であった。

まあ親の悪口はこのくらいにして、とにかくそんなことをムダに思い出すのも放送宣伝車のおかげである。別にゴダイゴや山口百恵を演奏したかったとは言わないが、なんであそこで軍歌だったのかなと、こう寂しく思い出す1980年代なわけなのであった。

【教訓】嫌なものは自分でことわりましょう。

金ありき 団体ありき で迷い道 字余り

私は日ごろから書いている通り小中学校のPTAには加入していないのだが、学童クラブの父母会は、おやつ代の関係でクラブ長(←公務員ね)に頼まれ、名ばかり会員(=金払うだけ。手伝いはOKなもののみ)となっている。
学童クラブという呼び方が全国共通かどうか知らないので、いちおう説明しておくと、小学校低学年の放課後保育をしてくれるところである。保育園と同じく、仕事などの「保育に欠ける要件」が必要となる。

何が言いたいかというと、学童の父母会会員は、往々にして、保育園の父母会出身者であるということだ。

プラス、ここに、
・学童の父母会会員はそのほぼ全員が小学校PTA会員である
・学童は保育園より定員枠が広く、自営手伝いやパートタイマーつまり、幼稚園PTA出身者も多く入ってくる(※)
という2つの要素がある。

(※)下の学年のお母さんに聞いた話だが、近年は待機激戦化が進み、学童クラブも保育園のように待機組がたくさんいるそうなので、この要素はだんだん当てはまらなくなってきている可能性もあります。

この父母会というのも突っ込みはじめれば切りがないのだが、もっともグレーな点は、大きな金が動くというところだ。
ほかはどうかしらないが、当地では学童父母会の会費はPTAよりはるかに高く、かつ、(2人目以降減額ながら)子供単位会費である。
そして1人分(1人目)会費の20パーセント以上が、上部団体への上納金となっている。(加えて学童保育誌の購入割り当てがある)
このシステムは保育園父母会からメイン部分を引き継いだものであり、うちの子の保育園父母会でも子供単位会費でかつPTAより会費は高く、その実に25パーセントを上部団体への上納金としていた。その上、上部団体であるからもちろん定例会議への出席や動員、団体内での役職も求められる。
こんなのが何故文句も出ずに存続しているかというと、保育園親にありがちな「金で済むなら」的なマインドおよび、「せっかく待機児童激戦のなか入所できた保育園で要らぬもめごとになりたくない」が心理基盤となっているものと思われる。

何が言いたいかというと、

①保育園でのうまみを学習した誰かが始めて学童クラブへと引き継がれているマネービルド(上納金)システム
②幼稚園PTA出身者により色濃く出がちな「してあげたい系の発想」
③PTAから修得された強制ノウハウ(一人一役、仕事は理由になりません、など…。ま、学童父母会で仕事を理由にしてたら成り立たないというのもあるが)

これら3つが融合し醸成されたものが「学童父母会」となろう、ということである。

さて、What's学童父母会の説明はこれくらいにして…
私が今回、学童父母会の話をしようと思ったのは、学童クラブから来たたよりにこんな報告が書かれていたからだ。

「父母会会計より、防災頭巾を20個、購入寄付いただきました。大切に使わせていただきます。ありがとうございました。」

まず手始めに疑問(小さいほう)として、「防災頭巾を学童クラブに寄付しようと思いますがどう思いますか?」ということを、会員としてまったく問われた覚えがない。
私も曲がりなりにも会員であるから年度初めに予算書はもらうが、クリスマス会費や卒会費関係という計上はあったものの、頭巾などというものはなかった…と思う。私の見落としかなあ。

どういう経緯で、何を流用してそんな寄付の話になったのかは知らない。クラブ側から、「卒会費という名目の寄付で寄越されたおもちゃがもう余剰になっているので、他の費用にしてほしい」という要請があったのも知っている。が、総会で承認された内容と違う使い方をするんならそれなりの手順は必要だよなあと思う。
いや、厳密に言えば総会で、予算書と違う内容で議決されたのかも知らんけれど、いつも「議案書」しか配布されず、総会の結果はまったく配布されないので出席してない私はわからないわけ。
例年シャンシャン総会だから、同じものを2回配布しても資源の無駄(笑)ということなのだろう。
ま、いいや。そっちは小さいほうの疑問だから。

で、疑問(大きいほう)なんだけど…。
うちの学童クラブには、70人くらいの児童が在籍しとるんですよ。
なんで防災頭巾20個?
20個寄付してもらって、どうしようって言うんだろう。
これって、寄付じゃなくて「備品の補充」じゃないの??
備品の補充は、設置者でやるべき話だよねえ当然。
父母会費が子供のために使われるんなら会費くらいかまわないけど、設置者の無能な仕事ぶりを埋め合わせてあげる便利なお財布にはなりたくないぞ私は。
児童の安全管理は当然ながら施設管理・設置者が考えることだし、それが必要なことなら予算があたっていなければおかしい。
頭巾に防災効果がないならそんなモノの洗濯や管理保管に税金が使われるのはおかしいし、効果があるなら設置者責任で整えるべきである。
どちらにしろ、父母会費で備品の補充をする正当性がみあたらない。父母会からの寄付でもらうものは、「あってもなくても大丈夫」という任意性があるものでなければおかしいはずだ。防災頭巾は、そんな任意で、人数の一部だけ寄付してもらってありがたいようなものではないはずなのだ。あきらかにこれは備品の補充、という「業務の代行」であるように思える。

やっぱり、根本的なところに問題があるように思う。
「○○をしよう」という発想のないところで、前年通りに集まってお金を集め、そこから「さてこれで何をするの?」という発想でものごとをはじめる。
だから、おかしくなるんだよね。だから頭巾でも20個買うかなんて話になる。
団体で何かをしたいから、その何かにこれだけ金が要るから、賛同した人で割ってお金を集めよう。
という基本姿勢をすっとばしてはいかんよね。
いかに「人格なき団体」であっても、なんの発想もなく集まるとロクなことにはならんよ。
ホントにそう思う。

おまけ…学童クラブの待機は、父母会のない民営学童クラブのほうが、激戦度が高いそうです。ちゃんちゃん。

ブラック自治会には気を付けよう

「PTA問題を元PTA会長が解説する」というおもしろいブログがあって、ここの主のすじさんという方は勝手にリンクをはっても怒らないと思うので
自治会?町内会?これじゃ違法PTAなどなくならない(怒)
という記事を見て思うところを書くことにした。

自治会というのは単なる「近所の寄り合い」ではなくて、地方公共団体が補助を出して「民のみんなは自治をがんばっとくれ」ということで推奨しとるわけである。なんでかっていうと、民がバラバラだと個別対応しなきゃいけなくて大変なことでも、まとまってくれてると色々便利なわけですよ。ぶっちゃけラクチンだと。
東京都で言うと「地域の底力再生事業助成」などと称して金もバラまいている。
これは任意団体である町会や自治会が都の思惑通りの事業してくれたら金をやるよというもので、それは4種類あって
防災・節電
健全育成
高齢者見守り
防犯
となっている(25年度)。
防災と節電がいっしょかあ? という気もしなくもないが、まあそれはいいとして、つまり都が「自治活動がこれをやってくれたら助かるわん」と思ってるものに「高齢者の孤立防止」がハッキリあるということだと思うのだ。
私は自治会規約には暗いのだが、たいがい「相互扶助」とか「連帯」とか「親睦」とかそういうことがうたってあると思うたぶん。

そういう観点から言うと、ほんらい自治会とは身の回りのこともやっとになってきた高齢者とか、障害者とか、子供とか、それを育てて大変な思いをしている親とか、そういう人たちも、地域を通してかかわり合うことであったかい助け合いが少しでもできると好いね、というような発想のものなのであろう。その発想自体はすばらしいと思う。
都の施策でも「高齢者見守り」と打ち出されてるくらいなのだから、高齢者は特に増え続けることもありあっちこっちで孤独死されたら由々しき問題でもあるから、地域でひとつ頼むわということなのかもしれない。

そんな目的を持つ自治会なのに、年取って手伝いなどが無理になってきたら抜ける他なくなる(=会員でいる限り活動の強制はなくならない)とか、抜けた途端「じゃあみんなのゴミ捨て場使うなよ」と排除するとか、いったい何なんだろうな〜と思う。
補助を出している以上、やっぱり市区町村がコンプラ管理をしなければならないはずではないだろうか? それを、「あれは任意団体だから統制支配介入はできません」と、自治会からはじき出される高齢者を見て見ぬふりするなら、まったく酷い話だと思う。そんな団体なら、いっそ最初からなくして強制動員イベントもやめたほうが、ご近所同士仲良くできるというものだ。
酷い話だけど、なんだかどっかで聞いた話だな〜。

まっとにかく、「キツクてもう無理」と高齢者が抜けるような自称「自治会」は、その時点で主目的を見失い運営に失敗していると断言してかまわないと私は思う。いわんや、抜けた高齢者を「ゴミ捨てさせない」とイジメるような連中をや。

*** 閑話休題 ***

ウチの近くに神社があって、毎年お祭りの時に(たぶん自治会による)お赤飯の炊き出しをやってたんですね。お手伝いの人や集まってきた子供達にあげてたらしい。私は行ったことないんだけどウワサで。
去年うちの子供が通りがかったとき、そこのおじさんが「食べてけ持ってけ」ということで持たせてくれたのですが、それがセブンイレブンの赤飯おにぎりになってました。わはは。
赤飯なんて、大量につくるのひと苦労だもんね。昔と違って子供、あんまり喜ばないし。
「もーやってらんないわよ。いいわよこれで。」と言う自治会のおばちゃんの声が聞こえてきそうだ。おばちゃんGJ。神社なのにセブンのおにぎり。いいじゃないかぁ(松重豊の声で)。

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プロフィール

ぶきゃこ

Author:ぶきゃこ
東京多摩地区。
会社員しながら4匹にエサやり中。
母親としてはもう相当数無理あり。
中2以来、ずっと重度の中二病。
ツイッターもあるヨ→@ bkk858

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